帥ノ局は、一瞬
、何かに襲われたように、口をつぐんだ。 かねがね、桜間ノ介のことは、諸将の口からも聞いていたからである。 「では、そなたは、屋島の御陣を離れて、源氏方へ降ったと聞く、あの桜間ノ介という者ですか」 「は、そのその裏切り者に相違おざりませぬ」 「ふしぎなことをおいいやる。みずから裏切り者と称とな
えながら、何ゆえ、雑兵などになって、平家の内に紛まぎ
れていやる?」 「おりもあらば、御方おんかた
に近づき参らせ、志を結び合いたい悲願にござりました」 「御方とは」 「平家の行く末のため、ひそかに、和を思いめぐらす御方たちへ。── すなわち、あなた様も、そのお一人かと見奉りまする」 「和を?」 「お隠しくださいますな。桜間ノ介は、敵の判官ほうがん
どの (義経) へ降ったとは申せ、平家を陥れんとする者ではございません。かつまた、その判官どのも、なるべく、血みどろな戦はせずに、主上を始め、科とが
なき女人にょにん など、多くを助けて、ただひとつ、神器を都へ還し奉るべき使命だに遂げうるならば
── と、しておられますので」 「確かに、判官どのは、本心、そう思うているのであろうか」 「本心、むごい殺戮さつりく
などは、好んではおられませぬ。── あくまで、平家と名のつく者は一人残らず亡ほろ
ぼし尽くせとは、鎌倉殿の厳命にはございましょうが」 「どうして、お許には、九郎判官どのの心の底がわかりますか 「じつは、その御本心をこめた書状もお預かり申しており、内々、平家のさるお人へ、それをお手渡しせよと、申しつかっておりまする。で、密かにこれへ参りましたなれど、なんとせしか、厳島へは、その御方一人のみ、お姿も見えておりませぬ」 「して、判官どのが、和を誘う相手と見たは、平家の内の、たれなるか。──
その書状にある宛名は?」 「あなた様の良人おっと
、平大納言へいだいなごん 時忠ときただ
どのです」 「えっ」 「人はあらんも、義経が本心を呼びかけるお人は、平家の内、ほかにはない。親しゅう、時忠どのに会うて、義経が胸を伝えよとの仰せつけです。あなた様にも、思い当たるふしがおありかと存じますが」 「おう、では判官どのには、わらわ夫婦との、七年ほど前の、ふとした好誼よしみ
を、今でもお忘れなく、覚えておいでなのであろうか」 そのことは、時忠夫婦の胸にも、始終、潜んでいたことにちがいない。 この人目もない波上で、はからずも、そうした旧縁のある当年の小冠者、九郎義経の密使に浮き会うとは、なんというめぐりあわせか。これも厳島の神のひきあわせかと、思われた。 「オオ、いつのまにか・・・・」 局は、ふと、女院のおひざを見て、夜の冷えを気遣きづか
った。みかどは、おん母のひざに安心しきって、すやすや眠っておられるのだった。 波の上といえ、油断は出来ない、万一、怪しまれては大変ぞと思う。── ともあれ、松木の御所へ漕こ
ぐようにと、局は、桜間ノ介をうながして、ふたたび、小舟の櫓ろ
を把と らせた。 さして、岸遠く離れたわけでもないから、小舟はすぐ、御手洗川みたらいがわ
の磯についた。磯は御所の庭つづきである。お迎えに出た典侍らの一人の背なかへ、みかどは、正体もないおん寝顔を、負われて行った。おん母とともに、そのまま、寝所へお入りになったに違いない。 それから、およそ半刻はんとき
ほどたった。もうどこにも、人影もない。ただ、さっきの小舟が、磯のなぎさに主もなく乗り捨てられたままあった。 ── と、やがてのこと。 桜間ノ介の影が、御所の奥庭深くから、小走りに戻って来た。そして、小舟に移るやいな、たちまち、沖へ漕こ
ぎ去った。それはたれも知っていない。 おそらく彼は、帥ノ局と二人で、なお、詳しい打ち合わせを遂げ、そして、平大納言時忠ひとりが、この厳島参籠に上陸していないわけも、また、その人の隠されている所なども、局の口から確しか
と聞き取って立ち去ったのではあるまいか。 |