〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/13 (日) は つ ぶ り ろう (二)

「── やれ、そこなる御子みこ 、お泣き遊ばすな。これへ召されませ。なんとも、静かな夕凪ゆうな ぎじゃ。そよ風だにございませぬわ。その辺りを、おなぐさみに、ひと巡りいたしましょうで」
前立まえだて もないしころ ばかりの鉢兜はちかぶと に、あご からほお へ、半首はつぶり を着けた雑兵だった。
ちょっと、こわ らしく見えたが、みかどは、それよりも、舟がおうれしいらしく、一そう、おん母の袂にすがってやまなかった。
「では、ここから御社みやしろ の海を斜めに、あの御手洗川みたらいがわ の磯までお渡り遊ばしては」
そつつぼね は、そう言って、下の雑兵へ、
「しなたは、たれの手の者か」
と、らずねた。
雑兵は、 を片手に、ひざまずいて、
「景弘どのの手勢にて、名もない下臈げろう にござりまする」
と、答えた。
そつつぼね は、女院のお顔をさぐるように、
「この ぎなれば、岸をおひろい遊ばすも、小舟の上も、さして違いはございますまい。みかどのおねだりにまかせて、松木の御所まで、お舟でお帰り遊ばすのも、また御一興ではございませぬか」
と、すすめた。
女院も今では、海にお馴れになっている。こわ いというお気持はない。ちらと、うなずきをお見せになった。そして舟寄せのきざはし の方へ歩み出され、もかどのお手をとって、下臈げろう の小舟へお乗りになった。
そつつぼね も、あとから乗った。
半首はつぶり下臈げろう は、小舟の端に、身をかがめていたが、やおら、 って立ち上がり、
「── では、松木の御所へ、お帰りなされますか。御所のお庭は磯つづき。・・・・お着けいたしましょうで」
と、ゆるやかに、 ぎはじめた。
みかどは、もう、ごきげんだった。ぶなべり から小さいおん手を伸ばして、波とお戯れになったり、空を行く渡り鳥を仰いだり、大人の持つ今日の感傷もないし明日の不安もさらさらない。
夕の神事がすみ、やがてまた、夜籠よごも りの仏修に移るのであろうか。宝殿ほうでん の奏楽につれ、ほかの堂塔からも、鐘が鳴っていた。── 峰や谷をちりばめている燈明やら、百八間の水廊の灯など、振り返ると、夢幻の国のようであった。── この夢幻美を、現実の地上に、描き出してみたいとした欲望こそ、故入道清盛のもった夢だったのである。
清盛が、この世に残したその “厳島いつくしま 曼陀羅まんだら ” は、今、彼が生前にもっとも愛していた娘 (女院) と孫 (みかど) のひとみへ、たしかに、その夢幻を見せていたのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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