「──
やれ、そこなる御子 、お泣き遊ばすな。これへ召されませ。なんとも、静かな夕凪ゆうな
ぎじゃ。そよ風だにございませぬわ。その辺りを、おなぐさみに、ひと巡りいたしましょうで」 前立まえだて
もない錣しころ ばかりの鉢兜はちかぶと
に、顎あご から頬ほお
へ、半首はつぶり を着けた雑兵だった。 ちょっと、恐こわ
らしく見えたが、みかどは、それよりも、舟がおうれしいらしく、一そう、おん母の袂にすがってやまなかった。 「では、ここから御社みやしろ
の海を斜めに、あの御手洗川みたらいがわ
の磯までお渡り遊ばしては」 帥そつ
ノ局つぼね は、そう言って、下の雑兵へ、 「しなたは、たれの手の者か」 と、らずねた。 雑兵は、櫓ろ
を片手に、ひざまずいて、 「景弘どのの手勢にて、名もない下臈げろう
にござりまする」 と、答えた。 帥そつ
ノ局つぼね は、女院のお顔をさぐるように、 「この凪な
ぎなれば、岸をおひろい遊ばすも、小舟の上も、さして違いはございますまい。みかどのおねだりにまかせて、松木の御所まで、お舟でお帰り遊ばすのも、また御一興ではございませぬか」 と、すすめた。 女院も今では、海にお馴れになっている。怖こわ
いというお気持はない。ちらと、うなずきをお見せになった。そして舟寄せの階きざはし
の方へ歩み出され、もかどのお手をとって、下臈げろう
の小舟へお乗りになった。 帥そつ
ノ局つぼね も、あとから乗った。 半首はつぶり
の下臈げろう は、小舟の端に、身をかがめていたが、やおら、櫓ろ
を把と って立ち上がり、 「──
では、松木の御所へ、お帰りなされますか。御所のお庭は磯つづき。・・・・お着けいたしましょうで」 と、ゆるやかに、漕こ
ぎはじめた。 みかどは、もう、ごきげんだった。舷ぶなべり
から小さいおん手を伸ばして、波とお戯れになったり、空を行く渡り鳥を仰いだり、大人の持つ今日の感傷もないし明日の不安もさらさらない。 夕の神事がすみ、やがてまた、夜籠よごも
りの仏修に移るのであろうか。宝殿ほうでん
の奏楽につれ、ほかの堂塔からも、鐘が鳴っていた。── 峰や谷をちりばめている燈明やら、百八間の水廊の灯など、振り返ると、夢幻の国のようであった。── この夢幻美を、現実の地上に、描き出してみたいとした欲望こそ、故入道清盛のもった夢だったのである。 清盛が、この世に残したその
“厳島いつくしま 曼陀羅まんだら
” は、今、彼が生前にもっとも愛していた娘 (女院) と孫 (みかど)
のひとみへ、たしかに、その夢幻を見せていたのであった。 |