〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/12 (土)  へ の こい (三)

従来。
屋島に敗れた平家は、志度からすぐ長門の彦島へさして一夜に落ちのびたかのように伝えられている。
それが誤りであることはいうまでもない。
途々みちみち 、源氏の襲撃には、たえずおびや かされていたろうし、陸上の難同様、瀬戸内の島々には、優勢な海賊も多いのである。
食糧や用水なども、たちどころに、窮乏を告げていたろうし、ふね 総体の速力も、最低に落さなければ、一つになって行くことは出来ない。
もっと細かに見れば、船中多くの女性たちの起居の不便やら恐怖など、それは想像以上な困難を伴ったかと思われる。
特に。考慮の外に けないのは。
この一門の人びとと、厳島との関係である。
長門へ下るには、いやでも、海上、厳島のすぐそばを通るのだ。── 立ち寄らないはずはない。
氏神と、一門と、その宿怨の上からも実に数奇な巡り合わせと言ってよい ── この運命の日においてである。
果たして。
九条兼実の日記 “玉海” の元暦げんりゃく 二年 (寿永四年) 三月十六日の項には、

── 伝ヘ聞ク、平家、讃岐ノ国志度ノ庄ニアリ。九郎 (義経) コレニ襲セテ攻ムルノウチ、合戦ニ及バズシテ引ヒ退ク。
平家ソノ時、ワズカ ニ百余艘。安芸ノ国厳島ヘ着キヲハ ンヌト。云々。
と、見える。
日記の日が、ずっと後にずれているのは、都にある兼実の耳へまで、その事実が聞こえて来るには、十日以上の日がたっていたからであっただろう。
ただ、分からないのは、その厳島に、平家が、幾日送っていたかである。
三夜か五夜か、あるいはただ一夜でしかなかったものか。
── しかし、厳島到着の第一夜は、みな船路の疲れもはなはだしかったに相違ない。
で、その夜は、休息に終わり、すべては、翌日から翌晩にかけてのことであったろう。祈願、供養は、終日ひねもす でも足らない。夕となれば、百八けん の廻廊の灯が、下のうしお を、久しぶりにいろど った。
── 思えば、かき消えてから、絶えて久しい燈籠とうろう ではある。これぞ平家が氏神へ奉る最後の灯だったわけである。平家が平家みずからを荘厳しょうごん する最後の光彩でありこの世の演舞であったと言えなくもない。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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