従来。 屋島に敗れた平家は、志度からすぐ長門の彦島へさして一夜に落ちのびたかのように伝えられている。 それが誤りであることはいうまでもない。 途々
、源氏の襲撃には、たえず脅おびや
かされていたろうし、陸上の難同様、瀬戸内の島々には、優勢な海賊も多いのである。 食糧や用水なども、たちどころに、窮乏を告げていたろうし、船ふね
総体の速力も、最低に落さなければ、一つになって行くことは出来ない。 もっと細かに見れば、船中多くの女性たちの起居の不便やら恐怖など、それは想像以上な困難を伴ったかと思われる。 特に。考慮の外に措お
けないのは。 この一門の人びとと、厳島との関係である。 長門へ下るには、いやでも、海上、厳島のすぐそばを通るのだ。── 立ち寄らないはずはない。 氏神と、一門と、その宿怨の上からも実に数奇な巡り合わせと言ってよい
── この運命の日においてである。 果たして。 九条兼実の日記 “玉海” の元暦げんりゃく
二年 (寿永四年) 三月十六日の項には、 |