〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/12 (土)  へ の こい (二)

景弘、景信の父子は、
「われらが、これにおりますからには」
と、しいて広言を払って見せ、
「みかどの御参籠ごさんろう には、伊都岐神いつきのかみ のおん守りもありましょうず。かつまた、諸方に兵を配して、ここを固めておりますゆえ、お案じなく、ゆるゆる御祈願をお め遊ばされよ」
と、繰り返し繰り返し、人びとを力づけていた。
やがて浜には松明たいまつ が刻々にその火の数を増していた。船から降りるべき人びとは女房たちにいたるまで、残らず、白砂の浜に降りきったものとみえる。
ぼうと一条ひとすじ光芒こうぼう に似る松明の列が、ほどなく、御手洗川みたらいがわ と磯の間を縫って流れて行く。
そのおぼろ な光芒の列の中に、あやしいばかりきら めく幾つかの輿こし が見える。みかど、女院、二位ノ尼などが召されて行くのではあるまいか。
みかどは、先ごろ、おいたずきであった。
幼い者の熱は急激だがなお りも早いとよく言われるように、みかども急速にお元気におなりであった。── しかし、── かん母建礼門院の御心配がまったくなくなったわけではない。
二位ノ尼も、老齢だし、大勢の女房たちも、屋島以来の船中の暮らしには、ほとほと疲れ果てていたことだろう。やっと今、ここで地上を踏むことが出来たのである。
どんなに、久しぶりの土が、足に恋しく、なつかしく、踏まれたことか。
なおまた、参籠さんろう には、身浄みぎよ めもいるし、女性にょしょう たちには、それぞれな支度もあろう。すぐには、社殿へまか るわけにもゆかない。
みかど以下、女房たちは、やがて、 “松木の御所” とよぶ一院へ入った。
そこは、かつて、後白河法皇と建春門院が御幸のみぎり、お泊りになった跡である。
みかどは、そこで、おん輿こし から抱き降ろされ給うやいな、もう、たれの言うこともおききにならず、たちまち、ありのままな童子振りをお見せになり、そこら中の廻廊かいろう を駈けに駈けて、ひとりでキャッキャッとおよろこびだった。
「・・・・・・」
典侍たちは、みかどの御気色みけしきうるわ しさよ、前にもましてお元気なと、そのお姿に、ほほ笑みあったが、おん母のみは、人知れぬ涙をそっとぬぐわれた。
童心の興味をそそるそれほどな何がここにあるわけでもない。
ただ、窮屈なお船の内に比べれば、ここははるかに広かった。ただ広かっただけである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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