夕潮の漲
りのなんとはなく、ひっそりとして、まるで浄土じょうど
とよぶ国の瑠璃るり 光こう
か彩雲さいうん のように、水と空が不思議な発色を見せた海原うなばら
の一瞬いっとき だった。 ぼうと、一群の船影が、遠くに見えた。 ──
近づくにしたがい、その帆影のおびただしさに、景弘すらも、驚いたほどである。 景弘父子は、ただちに、小舟に移って、宗盛の船へ伺候し、拝はい
をとげて、 「まずは、お体には、お怪我ものうて」 と言ったものの、涙が出てとまらなかった。 あたりに見える人びとも、敗軍の将そのものの窶やつ
れようであった。 が、気を取り直して、 「すぐ、本宮もとみや
へ詣もう でられますや」 と、訊たず
ね、 「また、おん夜籠よもご
りの方々は」 と、人数などの、打ち合わせにかかった。 宗盛に代って、人びとが言うには、 「── 先を急ぐ戦の途次とじ
、かつまた、長居はよろしくあるまい。ただちに、本宮へ詣もう
でられるが、望みの者と問えば、女房たちにいたるまで、たれ一人、あとの残ろうという者はいない。さりとて、余りにも大勢もいかがあろうか」 とのことだった。
女房たちの、そうした気持は、景弘にもよくわかる。 あらかじめ、万端、用意をしていたので、 「供奉ぐぶ
の方々と警固の武者以外は、なるべく島の磯辺いそべ
にとどまらせておき、そのほか主なるおん方はもとより、女房がたにも、お詣であるがよろしゅうござりましょう」 と、景弘は言った。 言外に ── 「これが今生こんじょう
における最後のことかも知れませんから」 と、心では言っていたのである。 やがて、総勢の船は、船分れして、一群は能美島のうみじま
の西の岬に待ち、一群は依田島 (江田島) の浦曲うらわ
に控えることになった。 厳島へ向かったのは、みかどのお座船以下、えらばれた大船小舟だけでしかない。 ── が、それにしても、幾十艘という数ではあった。 お座船は、そこの有ノ浦へ着いた。 かつては、清盛も、後白河も、高倉上皇も、御船みふね
を寄せた磯である。 それらの、遠く過ぎた日の盛事や御幸の夜と今夜の暗さとは、なんという違い方であろう。 月の末だったから、その晩は、空に待つ月もなかった。弥山みせん
や近くの峰影が、黒々と眉に迫ってい、二月きさらぎ
の冷えを、しいんと抱いている島の内と、白砂の汀なぎさ
が、ほのかに見渡されるだけでしかない。 それに、みかどと申せ、おん国母といえ、今宵の御下船は、まったくのお微行しのび
である。なんの格式や故実こじつ
によるものでもない。海の遠鳴り、峰の山風にさえ、すぐ背すじに源氏の襲来が妄想もうそう
された。そして 「・・・・もしや?」 と扈従こじゅう
の影はみな、その姿を寒々と、あらぬ怯おび
えに佇たたず ますのであった。 |