〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/12 (土)  へ の こい (一)

夕潮のみなぎ りのなんとはなく、ひっそりとして、まるで浄土じょうど とよぶ国の瑠璃るり こう彩雲さいうん のように、水と空が不思議な発色を見せた海原うなばら一瞬いっとき だった。
ぼうと、一群の船影が、遠くに見えた。
── 近づくにしたがい、その帆影のおびただしさに、景弘すらも、驚いたほどである。
景弘父子は、ただちに、小舟に移って、宗盛の船へ伺候し、はい をとげて、
「まずは、お体には、お怪我ものうて」
と言ったものの、涙が出てとまらなかった。
あたりに見える人びとも、敗軍の将そのもののやつ れようであった。
が、気を取り直して、
「すぐ、本宮もとみやもう でられますや」
と、たず ね、
「また、おん夜籠よもご りの方々は」
と、人数などの、打ち合わせにかかった。
宗盛に代って、人びとが言うには、
「── 先を急ぐ戦の途次とじ 、かつまた、長居はよろしくあるまい。ただちに、本宮へもう でられるが、望みの者と問えば、女房たちにいたるまで、たれ一人、あとの残ろうという者はいない。さりとて、余りにも大勢もいかがあろうか」
とのことだった。
女房たちの、そうした気持は、景弘にもよくわかる。
あらかじめ、万端、用意をしていたので、
供奉ぐぶ の方々と警固の武者以外は、なるべく島の磯辺いそべ にとどまらせておき、そのほか主なるおん方はもとより、女房がたにも、お詣であるがよろしゅうござりましょう」
と、景弘は言った。
言外に ── 「これが今生こんじょう における最後のことかも知れませんから」 と、心では言っていたのである。
やがて、総勢の船は、船分れして、一群は能美島のうみじま の西の岬に待ち、一群は依田島 (江田島)浦曲うらわ に控えることになった。
厳島へ向かったのは、みかどのお座船以下、えらばれた大船小舟だけでしかない。
── が、それにしても、幾十艘という数ではあった。
お座船は、そこの有ノ浦へ着いた。
かつては、清盛も、後白河も、高倉上皇も、御船みふね を寄せた磯である。
それらの、遠く過ぎた日の盛事や御幸の夜と今夜の暗さとは、なんという違い方であろう。
月の末だったから、その晩は、空に待つ月もなかった。弥山みせん や近くの峰影が、黒々と眉に迫ってい、二月きさらぎ の冷えを、しいんと抱いている島の内と、白砂のなぎさ が、ほのかに見渡されるだけでしかない。
それに、みかどと申せ、おん国母といえ、今宵の御下船は、まったくのお微行しのび である。なんの格式や故実こじつ によるものでもない。海の遠鳴り、峰の山風にさえ、すぐ背すじに源氏の襲来が妄想もうそう された。そして 「・・・・もしや?」 と扈従こじゅう の影はみな、その姿を寒々と、あらぬおび えにたたず ますのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next