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そういう情勢の中。 そうした佐伯ノ庄へ。 桜間ノ介は、今から数日ほど前に、どこで小舟を乗り捨てたか、飄然
と、ただ一人で、現れたものだった。 思うに、彼は、甥おい
の田口たぐち 教能のりよし
とともに、一たんは丸亀から長門へ向かったのであろうが、途中、何か考えを変えて、教能の同勢と別れ、ひとりで安芸へ渡って来たものに違いない。 もとより、身なりも島武士かなんぞのような、粗野な風をしていた。 そして、数日は、五日市から近郷をうろうろ歩いて、それとなくちまたの声や動きを探り、やがて今日初めて、地御前じごぜん
の館に、景弘を訪れていたのである。 それにしても、偶然か、知っていたのか、彼が、ここを訪うた日は、ちょうど、一門の厳島詣もう
でと同じ日であった。 ── すでに、その風報は、諸方からしきりに地御前へ聞こえていたので、景弘父子は、さっそく、厳島へも人をやって、万端の支度を命じ、また、万一の変へん
に備えては、陸路の要所や島々に、兵を配備しておくなど、用意おさおさ怠りなかった。 そして、さっきから浜へ立ち出ていた景弘は、しきりに、眉へ手をかざしていたが、 「まだ、お見えないが、陽ひ
ざしも斜め、やがてほどないことであろう。那沙美なさみ
の瀬戸まで、お出迎えに出ていようか」 と、景信をうながした。 一艘の麗うるわ
しい楼船ろうせん と、幾艘もの兵船に乗りわかれて、佐伯父子と、兵の一群が、そこの浜から、漕ぎ出して行った。 すすとかなたから来た一艘の速舟はや
と行き会った。舟上の武者は、 「それなるは、佐伯どのの御船なりや」 と、帆を、絞り下ろしながら近づいて来、景弘のいることを、確かめると、 「──
これは、内大臣おおい の殿との
の御状にて候う。火急のおつたえなれば、それにて、御披見ごひけん
なされ候え」 と、書状を、旗竿の先に結いつけて、速舟の上から、楼船の欄おばしま
へ差し上げた。 宗盛が、倉橋島を離れる前に、先へ立たせた使いであった。 が、書状の内容は、とうにここへ分かっていた。それくらいな早耳を持たないでは、四隣、源氏方となった今、厳島を、守ってゆけるはずもない。景弘は、宗盛の書を、拝したが、しかし形式的にそうしたまでで、 「御苦労でおざった」 と、下の速舟をのぞいて、労をねぎらい、 「かくの通り、われら打ちそろうて、お出迎えに出たところでおざる。あとは、おん船影を待つばかり」 と、言った。
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