安芸の佐伯景弘
と、阿波の阿波民部重能とは、どこかその立場が似かよっている。 二人とも、瀬戸内海における一方の雄ゆう
であった。そして、清盛直々じきじき
の遺臣といってもさしつかえない。 清盛の夢としていた ── 福原の開港、厳島神社の造営 ── といったような大事業には、二人とも参与して、その功労も少なくなかったが、また、清盛からも愛されて、ずいぶん、目をかけられた者たちだった。 わけて、景弘は、安芸守に任ぜられ、子の景信は、平たいら
の姓をゆるされるなど、いわば一門なみの扱いを受けていた。そのうえ、平家の氏神を祭祀さいし
する身でもあったから、この地方における勢威はいうまでもなかった。従って、昨日今日のように、平家が衰運の極きょく
となっても、佐伯一族が平家に殉じるであろうことは、まちがいあるまいと、言われていた。 「── 厳島の鳥居とりい
の朱あけ は褪あ
せようとも、景弘父子が、平家を裏切るようなことは万に一つもあるまい。あらば、世も末ぞ」 とは、一般の人の声だった。 また、源氏方でも、同様な見方で見ていたらしい。 ──
去年以来。 中国筋を下って来た範頼のりより
の東国勢も、必然、抵抗を予期していたが、佐伯景弘は、 「氏神の地のおん守りこそ大事なれ。厳島だに、踏み荒らされねば」 と、ただ内を守って、攻勢には出なかった。 中国でも、昨日までの平家が、続々、源氏へなびいて行った。範頼の麾下が去ると、次には、梶原が来て、諸所を攻めた。──
荒らされないのは、安芸、佐伯の二郡だけといってよい。 源氏勢も、当面は、 「めったに、平家の氏神の領は荒らすまいぞ。いたずらに、彼らの怒りを煽あお
るは、おろかな業わざ だ」 と、いましめているというが、しかし佐伯一族の静かな守りを見、 「うかと、手出しはならぬ。へたに、攻めあぐねるより、よそに見て、そっとしておけ」 という方針であったらしい。 その証拠には、範頼のりより
の本軍が、九州へ去った後も、なお、三浦義澄の一軍を隣国の周防すおう
にとどめている。つまり佐伯の抑おさ
えとしているわけだ。その配置から見ても、源氏が、ここの動きを、軽視していないことは、明らかだった。 |