〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/12 (土) おお とり (三)

安芸の佐伯景弘さえきのかげひろ と、阿波の阿波民部重能とは、どこかその立場が似かよっている。
二人とも、瀬戸内海における一方のゆう であった。そして、清盛直々じきじき の遺臣といってもさしつかえない。
清盛の夢としていた ── 福原の開港、厳島神社の造営 ── といったような大事業には、二人とも参与して、その功労も少なくなかったが、また、清盛からも愛されて、ずいぶん、目をかけられた者たちだった。
わけて、景弘は、安芸守に任ぜられ、子の景信は、たいら の姓をゆるされるなど、いわば一門なみの扱いを受けていた。そのうえ、平家の氏神を祭祀さいし する身でもあったから、この地方における勢威はいうまでもなかった。従って、昨日今日のように、平家が衰運のきょく となっても、佐伯一族が平家に殉じるであろうことは、まちがいあるまいと、言われていた。
「── 厳島の鳥居とりいあけ せようとも、景弘父子が、平家を裏切るようなことは万に一つもあるまい。あらば、世も末ぞ」
とは、一般の人の声だった。
また、源氏方でも、同様な見方で見ていたらしい。
── 去年以来。
中国筋を下って来た範頼のりより の東国勢も、必然、抵抗を予期していたが、佐伯景弘は、
「氏神の地のおん守りこそ大事なれ。厳島だに、踏み荒らされねば」
と、ただ内を守って、攻勢には出なかった。
中国でも、昨日までの平家が、続々、源氏へなびいて行った。範頼の麾下が去ると、次には、梶原が来て、諸所を攻めた。── 荒らされないのは、安芸、佐伯の二郡だけといってよい。
源氏勢も、当面は、
「めったに、平家の氏神の領は荒らすまいぞ。いたずらに、彼らの怒りをあお るは、おろかなわざ だ」
と、いましめているというが、しかし佐伯一族の静かな守りを見、
「うかと、手出しはならぬ。へたに、攻めあぐねるより、よそに見て、そっとしておけ」
という方針であったらしい。
その証拠には、範頼のりより の本軍が、九州へ去った後も、なお、三浦義澄の一軍を隣国の周防すおう にとどめている。つまり佐伯のおさ えとしているわけだ。その配置から見ても、源氏が、ここの動きを、軽視していないことは、明らかだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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