その後であった。──
桜間ノ介は、 「すでに、お聞き及びかも知れぬが、じつは、それがし事、屋島の御陣において、内大臣
の殿との
(宗盛) より御勘気をうけました。そにうえにまた、甥おい
の田口教能甥たぐちのりよし が、伊予引き揚げの途中、勝手に軍を解いて、離散するなど、重々の不首尾にて、彦島にある権中納言どの
(知盛) へも、兄の阿波民部へも、会わせる顔がございませぬ・・・・」 と、真まこと
しやかに、景信へ語り出した。 ── 言うところは、つまり、郷土の桜間城で不覚を取って以来、味方の笑い者となり、このままでは、彦島へも不面目で行けないゆえ、しばらく佐伯家の下にいて、何か功名をたてた後、しかるべき時に、佐伯どののお取り成しで、勘気のお詫びをしてもらいた
── ということである。 「それは、それは」 景信は、すっかり信じて、 「特により、不覚を取るも、ぜひのなこと。しかし、そのお心がけなれば、いつか、御勘気は必ず解けましょう。──
父景弘も、やがて彦島へ馳は せ参さん
ずる所存ゆえ、そのとき、御功名あって、さきの汚名をお雪すす
ぎあれば」 と、心からなぐさめた。 そこでその日から、桜間ノ介は、一雑兵となって、景弘の下に働くことになった。 もとより桜間ノ介には、べつに、ある目的が腹にあってのことだったのは、言うまでもない。 けれど、、そうして、粗末な小具足を着つ
け、顔には猿面さるめん のような半首はんつぶり
(鉄製の頬当ほおあて
) を被かぶ って、雑兵の中に立ち交じってしまうと、たれの眼にも、そんな異端を抱く者とは見えなかった。 おそらく、彼をよく知る者でも、その猿面頬さるめんぼお
を脱と らなければ、彼と気のつく者はないであろう。 彼が、雑兵組を望んだのも、もちろん、それを考えにもってのうえだったに相違ないし
── また、数日前から、この佐伯ノ庄へ、飄然ひょうぜん
と来ていたのも、あらかじめ、この地方の動きと自分の目標に、何かの意図を見出していたのではあるまいか。 |