すでに一ノ谷で、源氏のために三児を戦場で亡
くしているこの孤父は、もう早くから死を決していた。── というよりも、死ぬ日を、愉たの
しんで待つという心にまでなっている。 しかし、時忠があくまで生きて、源氏との間に和を策し、主上と女院のほか、平家のかたちだけでも、世に残そうとする考え方にも、深い同情を持つのであった。それこそ、故清盛に報むく
ゆることの第一かも知れぬと思うし、また、死以上の辛つら
さとも察してはいる。 けれど、彼自身の、死一途の考えは、毫ごう
も変っていなかった。── 時忠は時忠の道を行くがよいし、自分は自分の道を ── と静かに決めている風に見える。 「・・・・が、のう。大理どの。止めもせぬし、御思慮は、感じ入るが、ただいささか、経盛から見れば、不安もあるが」 「と仰せられるのは」 「まだお味方が、一ノ谷、屋島なんどに、威勢を張っていた頃なればともかく、ことここに及んでは、大理どのの和の策も、こちらだけの片思案になり終わるまいかと」 「いや、その憂いはありませぬ」 「ないと、お信じあるか」 「最後の死後に立ち至っても、主上と女院、そして三種の神器だけは、つつがなくお迎えすべしと、源氏も、院より仰せつかっておりましょう。・・・・それゆえ、源氏も無下むげ
には平家を討ち砕けませぬ。和を申し入れれば和にも応じて、院の御命にもとることのないように計らわねばなりますまい」 「というて、源氏のたれに、今さら、ひそかな和を通つう
じえよう。・・・・たれぞ、源氏のうちに、よいお心当たりの人でもあればだが」 「ないこともありませぬ。ただ一人はある」 「それは?」 「九郎どのです」 「はて。あの戦上手いくさじょうず
、あの戦好きの源九郎義経を、和議の相手にとは、ちと、おめがね違いではないですか」 経盛は言った。── それは、時忠のために惜しむような嘆声にも聞こえた。 「・・・・・・」 時忠はしいて、答えようともしない。 彼はただ、その胸の中で、七年前のある一夜の義経を思い出していた。 そのころ、義経もまだ無名の一放浪児にすぎず、検非違使けびいし
の牢ろう につながれていたのを、時忠が、国払いに処して、放してやったことがある。
そして、彼のために、別れの宴まで設けてやった。教経のりつね
たちの、若い荒公達あらきんだち
が、それには大不平で、帰途を要よう
して、九郎を殺さんと、企んだりしたほどだった。 その危ない途を。 時忠のむすめの夕花が、ふと、機智をもって助けて逃がした。 ── 七年前のそうしたことどもを、時忠は今、胸に描き出しながら、なんとはなく、黙然としていた。眼の前の経盛も忘れて、瞼まぶた
をふさいでいた。 船底の下を、ときどき、波の抵抗が、ごくん、ごくんと、奇異な音階と震動を残しては通って行く。船は、倉橋島の南の岬をかわいて、広い安芸の海へ出ているらしい。
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