〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/09 (水) へい うじ がみ (四)

たれやら、この暗い船底梯子はしご を、一足ずつ、足さぐりに、降りて来たようである。
「・・・・?」
船底は広く、幾部屋にも区切ってあり、平大納言時忠は、ちょうど、ともかじ 部屋から二つ目の部屋に、寂然と、ひとり何かにもたれてすわっていた。
「時実か」
そう呼んでみた。
── が、答えはなく、その人は、下に降り立ってからも、しばらく、時忠の姿を凝視していた。
時忠の側には、腐った帆綱やら船具が山になっている。彼は、それへ りかかり、気楽に脚を投げ出していた。ひざには何か、読みかけの書物を開いたまま乗せているのである。そして、それを読む明りといえば、鉄製のつり灯皿ひざら螢火ほたるび ほどな小さな明りがあるにすぎない。
「・・・・おう、ここにおいであったか」
「はて、参られたのは?」
修理しゅり でおざる。・・・・修理大夫しゅりのたいふ 経盛つねもり でおざるよ」
「や。・・・・修理どのか」
すわり直して、
「おひとりかの」 と、怪しんだ。
「されば、そこまでは、能登どのの小舟が送ってくれたが」
「ほ。あの能登守が、よう、あなたをここへお連れ申したなあ。いな みもせずに」
内大臣おおい どのに伺っても、能登どのに訊ねても、大理どのは、ここ病中のお引籠ひきこも りと承ったが」
「それだけは、うそ ではない。かくの如く、病中です。時忠は、大いに病み悩んでおり申す」
そう言って、彼は、からからと笑った。
船底のせいか、空洞くうどう の音響みたいに、それは妙にこも って聞こえた。
経盛は、黙って、彼の前に坐った。時忠が、わきへおいて伏せた書物の題簽だんせん を見ると、とう の詩集であった。こうして、魚油の小さい灯をかか げて、唐詩を読みふけっている時忠の姿そのものも、何か、異朝の流亡の詩人といった風に見えないでもない。
「大理どの。・・・・これではまるで牢舎ろうや の押しこめにおうているのと変りはない。さだめし、心外でおわそうの」
「いや、この無理扱いは、能登守の指図なれど、若い能登どのを恨む気にもなれぬ。まして、争うてみても味方同士。素直に病人になっていることにしましたわい」
「さすが、御分別だの・・・・。主上、女院のおん輿こし を奉じて、屋島を離るるさい、大理どのと、能登どのとの間に、けわしい喧嘩けんか が起こりかけたとか、あの騒ぎの中で耳にいたしたが」
「時忠とて、あの日のことは、ちとはや まったと申すほかはない。もしこし、機の熟すを見て、事をなせばよかったのだが」
「何もかも、運と申すもの。かくなっては、人の力では、どうにもならぬものがある」
「修理どのは、天命に服し、すべてを人意にあらぬ天意とあきらめておいでだが、この時忠なる者は、元来、運命を信じるよりは、自分を信じることの強い男でおざれば、なんとも、晏如あんじょ としてはおられませぬ」
「詩書は、お手になされていても」
「これは、こうしているまのひま つぶしの書です。いつぞや屋島のお陣屋の内にて、ざっと、お打ち明けした時忠の考えは、今も捨ててはおりません。・・・・いかほど、味方の者どもから、裏切り者よ、ふたまた者よと、さげす まれようと覚悟のうえでおざる。主上、女院のおん二方を始め、戦にかわわりもなきあまたな人びとを、修羅しゅら の底より救い出すためには」
「うム。・・・・それは、経盛も決してお止め申すまい」
経盛は、そっと、おもて をそむけた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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