〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/08 (火) へい うじ がみ (三)

── と、後ろへ寄り添って来た修理大夫経盛が、
「能登どの」
と、彼の耳もとへ、
「今日の にも、大理だいり どの (平大納言時忠) のお姿が見えなんだの。屋島このかたのことだ。いかがなされたものであろ。・・・・御子息、讃岐中将 (時実) どのも同様に」
と、あたりへ聞こえぬようにたず ねた。
教経は、ちょっと、眉色まゆいろ をためらわせた。── が、さりげない微笑のもとに、
「いや、お案じなされますな。ご無事でおられますゆえ」
「それや、御無事でおられようがの・・・・」
と、半ば口真似くちまね 口調で、経盛は言った。その白い眉が笑うように微風にそよいだ。
「屋島以来、ご病気と聞こえ、一船いっせん のうちに引籠ひきこも ったまま、とんとこのところお顔も見せられぬ。それゆえ、いちど見舞うて進ぜたいのじゃが」
「・・・・・」
「幸い、能登どのの小舟にて、大理どのの船際ふなぎわ まで、わしを送って給わらぬか」
「おやすいことです」
そうは言っても、教経は、気のすすまない容子であった。
が、経盛は 「── たのむ」 と、ばかり先へ小舟へ乗っていた。現存している清盛の実弟では、門脇殿より上の人であり、いわば一門の長老である。教経では、どうしようもない。
「あの大理どののことだ。御病気召されても、気鬱きうつ などであるはずはない。腹でもおこわし召されたかな?」
「さ、この船路、この戦の中、親しく伺っても見ませんが、武者どもをして、御不自由ないようには申し付けておきました」
「するとお手勢の船だの」
「さればで」
まもなく一艘の大型な武者船の腹へ、その小舟は横着けにされた。
「やれ、かたじけない」
礼を言って、経盛は、それへ移った。
彼の後ろ姿を、そこの船上へ見送ってから、教経は、自身の部下らしいふなべり の武者と、なお何事かささやいていたが、
「くれぐれ、油断すな。わけてまた、厳島へ近づくことでもあれば」
と、言い残して、 ぎ去った。
ほどなく、教経の井楼船せいろうぶね から、合図のかね が鳴り渡ると、ひとしきりは、総船出の支度に、帆ぐるまの叫びだの櫓手ろしゅ 楫取かじとり の声が、潮騒しおさい とともに揺れあった。
やがて、鯨群のように、残らずの船が、本浦ほんうら を出はじめてゆく。
教経は、井楼せいろう に上っていた。
後ろにひろがる視野の一劃いっかく が、黒っぽい枯木と焼け野原になっていた。彼のひとみ は、無念そうに、そこの焼けただれた大地の顔を見ていた。
由来、本浦には、平家の船工匠だくみ や船役人がたくさんいて、つい近年まで、さかんに造船していたのである。それが今は、ことごとく焼き払われて、陸には、犬の子一匹の影も見えない。
中国掃討そうとう に当っていた東国勢の仕業か、伊予の河野水軍の侵略か、いずれにせよ、これも西国の平家勢力が源氏に侵されつつある残骸ざんがき にちがいなかった。── 教経は、くちびる を噛んで、 「この恨みは、きっと・・・・」 と、誓っているようなそうまなこ をしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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