長門国
の彦島とて、ここまで来ていれば、もうほど近い。 伊予の河野水軍は、志度の源氏と合がつ
したという風聞だし、敵が、追撃して来るなら、もうどこかに、その片影は見せているはず。 ただ皆目、実状をつかみ得ないのは、周防灘すおうなだ
や安芸近海の島武士どもの表裏だけだ。 昔は言うまでもなく、平家一色の治下にあった彼らだが、屋島の敗やぶ
れを聞いた後は、内にどんな異心を起こしていないとは限らない。 「不安と申せば、ただそれだけが」 宗盛が、なお迷いを残していると、 「いや、それの御心配なら、さらさら無用でおざろう。──
厳島には、厳島の神主かんぬし
、佐伯さえき 景弘かげひろ
、景信の父子がおること。・・・・彼こそは、故入道どの (清盛) が、まだ安芸守あきのかみ
たりしお若いころからの無二の平家方。いまもって、変わりのない人物と信ぜられる。── 戦捷せんしょう
御祈願のため、みかど、女院、二位ノ尼公きみ
以下一門が、参籠さんろう を遂げたしと申し送れば、どれほど歓よろこ
ぶかも知れますまい」 と結局、門脇中納言の分別が、さいごの意見となって、議は決まった。 尼の願いが容い
れられ、厳島廻航のことが決まると、宗盛はすぐ、 「料紙りょうし
、硯すずり を」 と、その場で、一書をしたためた。 厳島の神主、安芸守景弘へ宛てての書状であろう。 心きいた武者数名を選んで、 「──
速舟はやぶね に乗り、すぐ先へ立て。そして、景弘父子の地御前じごぜん
の館へこれを届けよ」 と、いいつけた。 そして、教経へも、 「船出を」 と、うながし、 「抜かりもあるまいが、陸地くがち
へ近づくに従い、万一の恐れもあること。心して、総勢をみちびき参られよ」 と、くどく言った。いやくどいように教経の耳へは聞こえたのである。 もう教経の意志でもなし、といって、戦意を損そこな
うほどなことでもない。ただ、ぜひもなく、御意まかせ、といった顔つきに見える。そしてやがて彼も、諸将のあとから座を立って、わが船へ帰るため、舷ふなべり
の梯子はしご へ小舟をさしまねいた。
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