その日の午
ごろ。 流離りゅうり の平家は、倉橋島の南端
── 本浦ほんうら とよぶ一漁村の沖へすべり入っていた。 「はて、なんでまた、このような所へにわかな船かがりを?」 と、まだこれが二位ノ尼の指図と知らぬ人びとは、眉をひそめたことだった。が、ほどなく宗盛の総領船から、例の使番舟で、 「兵糧かて
、したためおわんぬれば、ちと、談義申すびょうことの候う。時一つに、寄り合い給え」 という布令状ふれじょう
が、各大将へ渡っていた。 で、多くの諸将は、評議へのぞんでから、初めて、わけを知ったのだった。 尼はその席で、人びとへ言った。 「申すまでもなけれど、厳島いつくしま
は平家の氏神うじがみ ぞや」 平家の氏神。 その一語は、人びとの胸にあった古い鏡を、突然、ぬぐって見せるように、思い出させた。 「亡な
きわが良人つま (清盛)
におかれても、福原の都づくり、経ヶ島の波防なみよけ
(築港) に次いで、その御造営には一代のお力をそそぎ給うた。あの不信心に似た御方も、厳島へは、月詣つきもう
ですら遊ばしたほどに。そして今、はからずも」 と、尼はやや声音こわね
をうるませて、 「── おいとけなき主上、おん国母を始め、この尼やら一門の男女、有縁うえん
の将士、平家につながる者すべて、浮くか沈むかの戦を前に、その厳島の御社みやしろ
に近う来ておりますぞや。さるを、この安芸あき
の海をよぎりながら、氏神の御社みやしろ
を、よそに見過ぎてよいであろうか。いかに、うらぶれたればとて、また、いかに落ち行く心の急せ
かれればとて・・・・」 ここまで聞けば、人びとにも、もう、尼の心がどこにあるか、わかっていた。 つまり尼は、今生こんじょう
最後の思い出に ── いや、そうは口には言わないが ── 「この沖をよぎりながら、氏神へ詣もう
でぬ法はない。ぜひぜひ、厳島へ詣でばや」 と、切に願いを起こしたものなのである。 ── 聞くと、人びともみな、 「平家にして、平家の氏神に、み燈あか
しだに奉らず、一夜の参籠さんろう
さえ遂げず、あわてふためいて、安芸の沖を落ちのびたりと言われては、世には笑い草、神にも見捨てられ候わん」 と、口をそろえて、同調した。 だが、分別者の門脇中納言かどわきちゅうなごん
(教盛) は、宗盛へ向かって。 「尼公のお胸のほどは、よう分かるが、しかし内大臣おおい
の殿との のお胸は?」 「もとよりその儀は、儂み
もひそかな宿願ではあれど、今日の身の空、かつは、先も急がるる戦の途みち
すがら。・・・・ただそれだけがのう」 「その辺は、能登どのの思案にあろう。いかが思われるか、能登どのには」 と、次に教経の姿へ、眼を転じた。 教経はさっきから
「── 困った」 という容子で、軍扇をひざに、うつ向いていた。彼の姿は、爪の先まで 「戦に勝たでは」 という一念に凝り固まってい、 「かかる、みじめな一門の姿を並べて、なんで氏神の前に罷まか
れようか」 と、しているような唇くち
もとにそれは見える。 けれど、尼公の言は、ここでは千鈞せんきん
の重さがある。それも、一期いちご
の望みとまで言うのである。教経も無下むげ
には拒みえず ── 「・・・・さ。何よりは、敵の動きいかんによることです。かかる間にも、万一の変へん
あらばと、ひたすら、彦島までの海路が案じられまする。── 教経としては、ただそれの懸念のみにござりまするが」 と、口をにごした。 しかし、経盛や、景経や、僧都そうず
専親せんしん などの意見も、それぞれ、言葉は違っても、尼の望むところと一つだった。 |