〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/08 (火) うき の 一 もん (三)

「真鍋たちか」
と、教経は、その五郎助光と、塩飽太郎を見て。
「おこと らは定めし、この辺の潮癖しおぐせ や島々の事情には、明るかろう。しばしここにいて、水路みずさき を見よ」
「は、心得てござりまする」
「多くに横たわるは、安芸国の陸地か、あるいは、大きな島影かの?」
「倉橋島と思われまする」
「倉橋島とな。では、その北方に、警固屋けごや と申す地があるな」
「古代の海の関とか、聞いております」
音戸おんど瀬戸せと とよぶうしお の急なる もたしかにその辺りぞ」
「されば、むかし、大相国 (清盛) どのが、巨財と数万の人力を投じられて、舟航のため、切り開かれた舟路の近道にございまする」
「ふと、わしもそれを思い出したのだ」
と、教経は、回顧の情を、眉にたたえて ──
「あれは、治承四年の春、季節もちょうど今ごろであった。時の高倉の上皇きみ厳島いつくしま 御幸ごこう のみぎり、この教経も随身に選ばれ、親しゅう朝夕の波路を供奉ぐぶ しまいらせたが・・・・。ああ、それも遠い昔のように思いがかす む。かぞうれば、六年前むとせまえ のことでしかないのに」
すると、井楼せいろう のすぐ真下の波間から、声があって、
御使舟みつかいぶね です。使番の者です」
尼公あまぎみ の御意に、お答えを賜りとうござる。小綱をお投げくだされい」
と、口々にたれか呼ばわっている。
のぞき下ろしてみると、みよしに黄旗きばた を立て、両舷りょうげん に大勢の櫓手ろしゅ を乗せた細長い俗に百足舟むかでぶね と呼ぶ使番舟が側へ来ていたのである。
「それっ」
と、すぐ井楼せいろう の上から、一すじの細綱が、うねりを描いて投げられる。
── それをつかむやいな、使番舟はさらに、大船のとも スレスレまで漕ぎ寄った。そして綱の端に、かわ文包ふみづつみ を結いつけて、上へ合図をする。上でのぞいていた武者は、すばやくそれを手繰たぐ り上げて、教経の手もとへ、文包をささげていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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