〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/07 (月) うき の 一 もん (二)

「おお、思わず居眠っていたらしいな。にわかに、肌寒う覚える」
能登守教経は、船尾の井楼せいろう (やぐら) の上で、ふとつぶやいた。
昼夜、そこに床几しょうぎ を置いている教経だった。で、疲れもしよう。今も床几のまま、井楼せいろう の横木に肱をかけたまま、つい居眠っていたのである。
井楼せいろう の上は三坪みつぼ ほどで、四面は楯で囲ってある。戦闘のさいは司令塔になり、また、武者が弓弦ゆづる をならべて、のぞき下ろしに、敵舟を駆逐してまわる場合も多い。
楯の片隅にいた郎党たちも、じつは今、教経のくさめ に、眼をぬぐわれたものらしく、はっと顔を上げて、
「夜明け前の海の一ときは、急に寒さを覚えまする。おくさめ をなされた御様子、鎧下着よろいしたぎ でも、お着代えなされましては」
と、すすめた。
「なんの・・・・」 と、教経は笑って、 「風邪などひいてはいられぬものか」
と、聞き流した。そして、井楼の横木から、空や海づらをながめて、
「そろそろ、朝だな。右手に見え出して来た島々は、備後びんご安芸国あきのくに か」
「この辺、島ばかり無数に見えまするが、さあ何島でございましょうか」
真鍋まなべ はおらぬか」
「ここにはおりませぬが」
「船底で眠っているのだろう。真鍋五郎助光、塩飽しおあくたの 太郎たろう の二人を、呼び起こして参れ。── この辺の水先案内みずさき なら、彼らに及ぶ者はあるまい」
まもなく、その二人が呼ばれて来た。
彼らは、塩飽しあく 諸島の島主しまぬし であり、助光の兄、真鍋助久は、平家に加わって、一ノ谷で戦死していた。
その後も、異心のない者どもと見、平家は、志度を出た後、ひとまず、塩飽しあく佐柳島さやなぎしま真鍋島まなべしま などで、水、燃料、食糧などを調達し、また敵方の情勢もうかがっていたのであった。
さもなくば、どこかで、河野勢の伊予水軍とぶつかるか、源氏の鵜殿党に追いかけられていたかも知れない。ここまで無事だったのは、ひとえに塩飽しあく 諸島の島人れの好意であった。世は末なりとはいえ、平家と西国地方との由縁ゆかり や主従関係は、まだどこかに生きている。耐えてはいない ── と、落魄らくはく の人びとの意を強うさせたことであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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