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その後、八島を捨てた平家の水軍は、波の上に明け、波の上に暮れ、そして今夜も、伊予
沖はるかなひうち灘なだ の星の下に、その軍影を朧おぼろ
に見せ、たどたどしい船脚を、西へ西へ、向けていた。 船の型も能力も一様ではない。落伍らくご
を出さないためには、お互いに扶たす
け扶けして連れ落ちなければならなかった。自然、全体の速度はぐんと、低くなる。 それは、漂う水鳥の大種族が、あすの棲息せいそく
の岸を、他へ求めて行く様にも似ていた。しかし水鳥にはある明日の安住の地も、平家の人びとの行く手にはあるかないか。 ただ、頼みといえば、。総領の宗盛とか、教経のりつね
とか、また一連の侍大将らが、依然として吐いている強気な言葉だけであった。 その言う所に従えば。 長門ながと
の彦島ひこしま へ行きさえすれば、お味方の権中納言ごんちゅうなごん
知盛とももり がいる。九州平家の松浦党、山賀党、原田党、菊池党などの精兵もひかえている。 かつ、彦島の根拠地ねじろ
は、九州中国の要衝たる関門海峡を扼やく
しているので、守るによく攻めるに難い。 そこへ、われらが合がつ
しれば、船数も千艘近くにのぼり、総兵力も優に七、八千の大軍になろう。 そうなれば、不壊ふえ
の軍だ。金輪際こんりんざい 、もう負けないと言うのである。 「──
彦島までに候うぞ。彦島までのお怺こら
えぞ」 おりおり、用水や米塩の補給のため、名知らぬ島へ寄っている間も、教経だけは、お座船や女房船を見まわって、 「かならず、お心細く思し召すな。この能登守は、べつのい艘におりますが、真夜半まよなか
の潮路うしおじ にも、わが眼は、すべての船影を、不断にお見守り申しておる。一艘といえ、迷はぐ
らせはせぬ。生きるも死ぬも諸共もろとも
。一蓮托生いちれんたくしょう
です」 海上では、彼はつとめて、 “死” を口にしないように気をつけていたが、ついそれが迸ほとばし
って出ると、あわててまた、言い足した。 「伊予沖だに越せば、途中、源氏の襲う心配も、もはやあるまい。彦島もやがて間近。戦は、われらの手でしましょう。女院や女房方は、陸くが
にあってお安らぎあるがよい ・・・・かつまた、権中納言どの (知盛) は、一門第一の名将。なんぼうにも、お心づよく思し召されよ」 こうして、流離りゅうり
の一大家族は、まだ幾夜の漂泊ひょうはく
を重ねたほどでもなかったが、内ではお互いを励ましあったり、外には、瀬戸内せとうち
の海賊や源氏の襲撃を警戒しながら、ようやく、ひうち灘なだ
も過ぎて、安芸あき の海へはいりかけていた。 |