〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/07 (月) よ し や 君 (一)

「ほ。・・・・そうか。では、昔は木ノ丸御所の木戸守をお勤め申し上げた者か」
麻鳥は、奇縁に驚いて、
「じつは、そのころ、わしもただ一度、御配所に近づき参らせたことのある者。── 月のよい晩、池のみぎわ にすわって、笛を吹いて去った遍路へんろ の男を、おぬしは覚えていないか」
と、言った。
老爺ろうや は、忘れていなかった。 「さては、そのおりのお人か」 と、なつかしみ、さらにまた、この白峰の御墓には、上皇がおかくれになってから数年の後、西行と名乗る旅の歌法師がもう で、峰の上に、一夜を通夜つや して去ったということなども語り出し、
「その西行さまが まれたお歌とやら、幼いこの娘に、書いてくだされた懐紙かいし が、今も、わしの家にあるが」
と、老爺は、いい足した。
おそらく、旅の西行は、一夜の宿を、ふもとの農家に借り、そこの可愛い小娘に、歌の反古ほご でも与えて去ったものだろう。その西行が、一体どんな歌を白峰へささ げたのか、麻鳥は知りたい気がした。── が、もとより文盲な老爺が、歌など、そらんじているはずもない。
だが、まだ幼い時に、西行にそれを貰ったという彼の娘は、たれかに読んで貰ったことでもあるのか、その歌を覚えていた。── と言っても、いたずらに、羞恥はじら うのみで、なかなか答えもしなかったが、やっと口籠くちごも りながら、麻鳥へ、こう伝えた。

よしや君 むかしの玉の ゆか とても  かからん後は 何にかはせむ
── 峰の上は、ほの暗くなっていた。
やがて別れて、家路へ急いで行ったそま父娘おやこ の影も、濃いたそがれの底へ、いつか見えなくなっている。
── さっきから、ひとり、そこここを逍遥しょうよう していた義経は、いま、小耳にはさんだ西行の歌、
「よしや君、むかしの玉のゆか とても。・・・・むかしの玉の床とても」
えお幾度となく、微吟していたが、
「麻鳥」
と、ふいに呼びかけ、
「まことに其許そこもと は今日、よい一日を思い立ったの。幼少を鞍馬くらま に送りながら、仏心うすき義経なれど、今日のみは、そぞろ、み仏恋しい思いがした。応報の必然、因果のきびしさなど、心に沁み入る。── さらばわしも、崇徳の君のきびす にかんがみ、いつの日かは、外道げどう の弓矢を捨て、天魔の鉄衣を脱いで、亡母はは の菩提をとむらいつつ、世の和楽をたの しむ民の一人となって終わろうことを祈ろうよ。いや誓おうぞ」
そう言って、もう眸にも、おぼろ でしかない石に向かって寂然とすわった。
を合わせ、やがて、胸のうちで。
「・・・・ なるこの男を、そも何者ぞと、思し召すらん。ここにもうはべ る者は、君のお味方たりし六条判官為義の孫、君に弓引きまいらせし敵方の左馬頭義朝が八男、いまは鎌倉どののお使いにて平家追討の途中にある九郎判官義経と申すものです。── 思えば、この義経のごときは、まだ乳呑ちの みの幼きより、戦のうちに投げやられ、すでに父、祖父ともに、非業ひごう の死を遂げ、鞍馬の風も、世間のもてなしも、すべてこれ、牛若という一個の童子を、ふたたび祖父そふ の後を追う甲冑かっちゅう鬼神きじん に仕立てんとするものばかりでした。── また、義経も屋島までは、一念、父祖のえん をそそがんと、一代の業も生きがいも、ただそれにありとしていたのです。宿命、ただそれに引かれて育てられました。宿命の子、復讐の弓矢の権化、それが九郎義経でした」
── 胸の内で言っている言葉も、いつかそのくちびる から声になって、もれていた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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