平治ノ乱の年、義経は二歳であった。 何も知らず、母の常盤
のふところに、乳をまさぐっていた嬰児えいじ
であった── あれから、二十四年。 世の変貌へんぼう
は、何と言ってよいか分からない。 国ぐるみ変わってしまったとも言えよう。あんなにまで強固に見えた平安朝からのしきたりや貴族専制のかたちも、面影はなくなってしまい、それに取って代わった平家も、六波羅、西八条の栄花を、もう昨日の夢として、今は縹渺ひょうびょう
の果てに、末路の泡沫うたかた
をひいているにすぎない。 いや、個々の人間を見れば、その明滅はもっと短く、得意も転落も、なお、あわただしい。 だのに、その転変の忙しさにもあきたらず、人の世の動きは、つねに戦を究極の目標としているように見える。 保元以前は、四百年も戦はなかったというこの国。それが、ひとたび保元、平治の血を地に染めてから、どうして、こうも絶え間のない修羅の繰り返しが行われて来たのだろうか。合戦が人間の業ごう
になり出して来たのだろうか。 「・・・・もし、その輪廻りんね
が、この後も繰り返されるなら?」 今日までは、思いもしなかった思いが、しきりに、義経の胸を吹き抜けた。── 突然、人界から遠い虚空こくう
に身を立たせたため、その人界の愚をあざ笑っている何者かが巒気らんき
をかりて、彼の毛孔けあな から体内へ忍び入ったのかも知れなかった。 「平家は亡ほろ
ぶ。だが、その平家に取って代わる源氏も、また必ず、いつの日かは?」 義経は、なんとなく、ぞっとした。 春三月初めだが、峰の上は、なお如月きさらぎ
の寒さである。 彼はふと、辺りへ眼をさまよわせた。 麻鳥が見えない。 麻鳥はいつの間にか、囲いの中へ入って、そこの土ど
まんじゅうの前に、ひれ伏していたのである。 松の梢ばかりだけでなく、茫々たるそこらの長い枯れた草にも、たえまない風があった。草やら彼の狩衣姿かりぎぬすがた
やら分からない。 彼は、草の中に身を沈めたまま、 「・・・・まことに、お久しいことでございました。麻鳥でございまする」 と、生ける人へ向かっているように。 「よそながら、君に最後のお目通りを遂げましたのは、木ノ丸御所のころでした。忘れもいたしませぬ。秋の一夜。配所の番士の情けにすがり、あの御幽居の縁先と池を隔てて、変わり果てたお姿を一目拝むことが出来たのです。・・・・あの夜が、さいごのお別れでございました」 義経が居ることさえ、彼は忘れはてたかの容子である。 「あの時は?・・・・ああそうでした。──
むかし、都の御所においでのころ、(月のよい晩に、いちど、おまえの笛を聞きたいね) と仰しゃってくださいました。そのお約束を忘れ得ず、この讃岐さぬき
へ渡って来たのでございました。・・・・で、密かに、配所へ伺い、池を隔てて横笛を吹きました。精せい
かぎり、また、涙ながら、懸命に吹きました。君にも、おん涙をたれてお聞きくだされ、およろこびのお顔が池越しに拝されました。・・・・あんなにまで、自分も満足されたことはありません。わたくし自身も、うれしかったのでございます」 ──
ふと、黙った。 狩衣かりぎぬ
の袖で、涙をつつんでいるのだった。 「けれど、その後、世にもあるまじき御最期の様を伝え聞き、余りの浅ましさに、身の毛もよだち、君を悲しむ心さえ見失うておりました。
── 人のうわさには、崇徳の君は、生きながら世を呪のろ
う天狗てんぐ になったと申したり、また、人の世の続く限り、人と人とを争わせ、その血みどろを、魔界から見てよろこばん
── と、死のまぎわに一声仰せあって、御憤死なされたとも、伺っておりまする」 |