〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/06 (日) だい おう (一)

── 道は、香東川ごとうがわ の上流をさかのぼって行き、やがて河原を西へわた る。
貧しげな部落の一つで、 「── ここは鬼無きなし 、この先は、国府の里」 と、教えられた。
ようやく、山里らしく、山せばんで来た感じである。
行くほどに、麻鳥は、
「ああ、この辺りまで来て、やっと思い出された参りました。何せい。わたくしがこの地へ来たのは、二十幾年か前のことでしたから」
と、過去茫々ぼうぼう の思いにたえぬらしく、ふと、義経へ、
「殿、しばし、かなたへお眼を向け給わりませ」
渓流向こうの、南の山のふところを指さして、
「── 途々みちみち 、おはなし申し上げたつづみおか とは、あれなる小高い所でござうまする。崇徳すとく の君が、遠流おんる 八年の月日を悶々もんもん とお過ごしあったまる 御所の跡。・・・・今、どうなっておりますことやら」
と、ひとみ をうるませた。
麻鳥が、むかし、しの崇徳の君、当時、新院とうやまわれていた御方の宮苑きゅうえん に仕え “柳ノ水” の水守みずもり をしていたことは、義経も前々から知っている。
それにしても。
まお麻鳥の胸には、その君が生きているのだろうか。── ただ一人の胸にでも、そんなにまで、慕われているのを見れば、崇徳にも、おやさしいところが多分にあったにちがいない。
は、以後の世人は、崇徳院といえば、悪鬼怨霊あっきおんりょう のごとく、ただ、恐れている。世を地獄に落とし、人を天魔に さねばやまぬ大魔王のように、言い伝えている。
「・・・・死して後までも」
義経はふと、たれかといわず、生きている人間すべてが、罪深い者に思われた。
「先を急ごう、黄昏たそが れぬまに」
「やや駒を急がせた。まもなく、白峰のふもと口たしい。登りは、ゆるやかだが、石ころ坂は、なかなか尽き果てそうもない。
「やあ、これより先は、もう駒では。ごむりでございましょうず
先駆の弁解たちは、そこから先、胸突きのような峰道を仰いで、馬をとめた。
「おう、おこと らは、ここにて待て。・・・・麻鳥」
「はい」
里人さとびと の申すにも、一すじの峰道だにたどり行けば、知れようとのことだった。おこと 、道の先に立て」
「かしこまりました」
弁慶たち三名は、途中に残した。── そしてなお登りつめて行った。峰道とて、かすかでしかないが、しかし、もう頂と思われるうち、果たして一叢ひとむら の松の木蔭に、いと小さい、下臈げろう の墓ともいえるような、草茫々ぼうぼう たる一基いっき の石が見出された。
麻鳥は、その前に佇んだ。義経も立ちどまった。
「・・・・・」
石も語らず、二つの影も石のように、凝然ぎょうぜん と、ただ峰風の中に身を立ち支えた。
峰には、松が多い。どの一松も、風に揺られていない梢はない。それほどに、ここは山高く、雲の の中にあるかと思われた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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