〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/06 (日) しら みね おろ し (二)

麻鳥の願いというのは、
「ここ十里ほどの西に、白峰しらみね と申す所がありまする。── もう二十年も前ですが、忘れ難い御方おんかた が、そこの配所にて、みまかられました。山深い片田舎のことゆえ、とむら う人もあろうはずもなく、さだめしお淋しくやあらん、世を人をもおうら みにてやあらん、などと常に気がかりにしておりました。ところが偶然、こんどこの地へ参り合わせました。尽きぬ御縁と申すものかと思われまする。・・・・で、その白峰へまい りまする。二日ほどのお暇をおつかわしくださいまし」
と、言うのであった。
ここでの陣医組の仕事は、どれほど人びとに喜ばれたか知れない。軽傷者、重傷者、ふつうの病人げつなく、今では麻鳥をみな慈父と慕っていた。
もちろん義経は、彼の願いを、聞き届けた。同時に、ふと、心をひかれたように、
「その白峰には、たれの御霊みたま が、其許そこもと の訪うのを待っているのか」
と、たず ねた。
「・・・・さればでござりまする」
と、麻鳥は、かたちを改めて、
「はや、年古としふ りたることですが、かの保元ノ乱の後、讃岐国さぬきのくに へ流され給い、およそ八年の久しき間、まったく世間との便りも断たれ、ついに大魔王だいまおう となって狂い死にあそばしたと世に沙汰さるる、あの崇徳すとく の君でいらせられます」
「おお、崇徳上皇の・・・・あの白峰か・・・・」
義経は、眼をとじた。
そしてにわかに、
「・・・・麻鳥」
「はっ」
「義経もともに連れよ。その白峰へ」
「えっ、御一しょに、もう でられますか」
「遠くもない由、馬なれば、なお、わけはあるまい」
「が、いかなる思し召しで」
「義経が心は、たれ知らぬもよし、ただなんとのう、わしもその白峰を訪うてみたくなったまでだ。・・・・ふと、こう心の動いたのも、そちが申す巡り合わせというものか。
── 保元のむかし、その崇徳すとく の君の御謀叛ごむほんたす けまいらせ、戦い敗るるや、上皇のおん手をひいて、都の北、如意にょいみね を、逃げさまよいしは、この義経の祖父、六条為義どのでであったと聞く」
「ああ、まことに」
「・・・・しかも」
義経の眉は、何かに、じんといた むように。
「その君と、祖父為義どのを敵にまわし、矢を射奉った一方の旗頭は、やはりこの義経の父、義朝どのであった」
「仰せのとおり、院方には為義さま、朝廷方には義朝さま、御父子、敵味方に別れての、血みどろな」
「なんたる非業ひごう な戦いか。義経は、その祖父には孫、その父には子に当る者。はからずも、讃岐さぬき へ来ておりながら、まい らではかなうまい、その白峰へ」
「ありがたい思し召、ぜひ、おん供させていただきまする」
「大勢は、人目立たん。供にはたれを」
と、侍座の面々をかえりみて、二、三の者に駒のしたくを命じておき、なお、伊勢三郎へは 「おそくも、夜半までには立ち帰ろうほどに ──」 と、あとを託して、そっと陣門を出て行った。
もとより微行しのび
供人も弁慶、忠信、有綱の三人だけでしかない。
それと麻鳥を加え、主従五騎。
久しぶり、血ぐさい陣と、戦気を離れて、義経はふと、空の太陽までが違うもののように仰がれた。野の蝶々に絡まれながら、駒にまかせてトコトコ駈けるうち、胸は快い呼吸をうた い、額は少年の日のような薄い汗を浮かせていた。
いま行く姿が、本との義経か。戦陣の先をゆく日の彼が、まことの義経か。
どっちが、事実その人であろうかなどと、麻鳥は、後に続いて行きながら、小首をかしげたことだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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