〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
浮
(
うき
)
巣
(
す
)
の 巻
2014/04/05 (土)
白
(
しら
)
峰
(
みね
)
颪
(
おろ
)
し (一)
梶原
(
かじわらの
)
景時
(
かげとき
)
の到着に続いて、翌日には、伊予の
河野
(
こうの
)
通信
(
みちのぶ
)
が、その持ち船と手勢をあげて来会した。
また二日ほどおいて、田辺の
別当
(
べっとう
)
湛増
(
たんぞう
)
の紀伊水軍もここにみえた。── なお、
摂津
(
せっつ
)
の渡辺に残って船の修理を急いでいた一部の味方とか、勝浦で別れた
鵜殿党
(
うどのとう
)
なども、思い思い集まって来、屋島の海もせましと見えるばかりな
船数
(
ふなかず
)
だった。
それらの参加があるごとに、義経のいる六万寺は武者の群で埋まった。いうまでもなく
参陣
(
さんじん
)
の
簿
(
ぼ
)
に到着をつけて、以後の指揮を仰ぐためにである。
が、中でも
河野
(
こうの
)
通信
(
みちのぶ
)
とか、田辺の湛増へは、義経自身、堂を降りて迎え、
「よくぞ、遠くを」
と、その来援を謝して、
驕
(
おご
)
る風はなかった。
通信は、人も知るように、平家の全盛期も通じて、平家へ抵抗し続けて来た
不屈
(
ふくつ
)
な豪族であるし、湛増は、熊野三山における法王的な存在である。どっちも大物中の大物といってよい。
陣容の充実につれ、統御のむずかしさも加わってくる。真参加のほか、梶原景時という
小姑
(
こじゅうと
)
もいるのである。また、その景時と、こころよからぬ御家人も多いのだ。大将軍義経の立場は決してやさしくない。
けれど、河野通信も、田辺の湛増も、義経の
驕
(
おご
)
らない態度には好感を持って、よく命に服した。むしろ、違和のおそれは、鎌倉御家人の内輪にある。特に、軍艦の梶原を中心に小さい感情の対立はたえなかった。
といっても、次の戦いへの準備と、忙しい毎日は、事なくつづいている。
近海の島々などに、なお平家の与党が居残っていないか。
先の主力は、どこへさして落ち去ったか。
そうした海上偵察だの
掃討
(
そうとう
)
には鵜殿党と、河野勢がもっぱら当った。
同じ目的のもとに、山岳地帯や近郷へかけても、兵が手分けされていた。
こういう間に、鎌倉表からは、さきの
捷報
(
しょうほう
)
に対する賀詞の答えと、次の令書が来た。
頼朝の文のうちには、
"── かねて、鎌倉中の船大工をして、浦々にて日夜急がせありし軍船三十余艘も、はや出来たゆえ、それに
兵糧
(
ひょうろう
)
を満載させ、近く、西海へ運ばしめん"
と、あった。
戦捷
(
せんしょう
)
の報にわき返っている鎌倉表の景況やら、頼朝夫妻の得意気な容子までが、どこか、眼に見えるような文であった。
一方また、屋島平家の、以後の足跡とか、そして、九州北端にある平軍根拠地の状況なども、ほぼ、つかみ得たので、
「もう、いつでも」
と、義経の胸は出来ていた。── おそらくは、次の海戦こそが、最後のものであろうと思われるその想像図は、はや描かれていたのだろう。
だが、梶原と九州の
範頼
(
のりより
)
とのあいだに、なお何か、連絡を待つものがあるらしかった。で、ここ幾日かは、西下の日が延ばされていたのである。
その間の二、三日は、陣中も
閑
(
ひま
)
にみえた。と、ある朝のこと、
「折り入って、お願いにござりまするが」
と、
阿部
(
あべの
)
麻鳥
(
あさとり
)
が、義経の前へ来て、ひざまずいた。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next