〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/03/23 (日) さくら すけ (一)

曲者くせもの は、代え矢を持っていない様子だった。射損じたらそれ限りである。もっとも、その場合は、二の矢をつがえるひまなどはおそらく与えられないだろう。どっしみち彼はm「ただ一矢で、相手を倒すか自分の死か、一念なものも、 けているに相違ない。
── 先を行く義経は、それに気づかない様子であった。 ここの岡全体が、露営地だし。いわば味方ばかりの中である。そんな曲者が入り込んでいようとは、夢にも思えなかったことであろう。
とのかく、それから数歩の間に、義経は異様な短い人声を背後で聞いた。
ぴゅんと、弦音つるおと も、一しょであった。
しかし、矢は、彼の影とはおよそ見当違な方へ れてゆき、はっと振り向いたとき、かなたでは、二つの人影が、猛烈な素手の格闘を見せていた。
「やっ、何者ぞ?」
義経が駈け寄る間に、そこでの格闘は、勝敗がついていた。曲者を組み伏せたと見える上の者の影が、
「弁慶でござりまする」 と、聞き馴れた、いつもの声ですぐ答え ── 「かくの如く、敵の刺客しかく が近づき奉るおそ れもあるに、殿には、なんでただお一人、われら近習を捨ておいて深夜をお歩きなされますや」
と、その軽率な行為に、腹を立てているらしい口吻こうふん だった。
「いや、みなの疲れははなはだしい。さだめし、おこと らも眠かろうと思い、わざと一人陣見まわりに出ていたのだ。悪しゅう思うな、弁慶」
「いつもながら、ありがたいお胸なれど、万一にも、このような不敵者のために、御一命を失い給うようなことでもあったら、なんといたしまするぞ」
「では、それなる者は、義経の一命をねら い寄った裏切りか」
「いや、お味方の内では、ついぞ見ぬ面構つらがま え、平家の刺客にちがいございませぬ」
言いながら、下の顔をのぞきこむと、男は無念そうに顔をそむけた。そして、なお足技あしわざ でも思うのか、しきりにかかと を動かした。
「まだ足掻あが くか、往生際の悪いやつ」
弁慶は、締め付けている一方の手を離して、
つら を見せい、しゃつ面を」
と、男の耳の根をねじ切るほど引っ張った。
「やあ、手荒をすな、弁慶」
義経は止めて、
「平家武者たりとも、中にはかかるすさ まじきごう の者もいると見える。敵ながら、けなげな者よ。ただいまし めにかけて、わしの幕舎とばり までひいて来い」
と、いいつけた。
弁慶は、舌打ちして言った。
「あら、歯がゆき殿の仰せかな。もし弁慶が、ひそかな殿のお出ましに目ざめず、そして、この曲者を見つけずば、すんでにお命も危うかりしに、なんで、人なみなお情けまどをかけ給うか」
不承不承に、男をくくり上げて、
「ええ、歩けっ」
と、なおむご く男へ当った。
男は大地にすわり直した。そして、動こうともしないのだ。弁慶の姿を、 め上げて、
「歩かん、歩く用はない。わしの首さえ斬れば、すむことだろう。ここで斬れっ」
と、烈しく言った。
「なに」
弁慶が怒って、その弱腰へ、足をあげかけたのを見、義経はまたしかった。義経は、明らかにもう捨てばちな男の形相へ、依然、穏やかな言葉で言った。
「死にたくば、自身の手で、ゆるやかに自害し給え。おたがいは、もののふ。人の死までをはずかし めはせぬ。ともあれ、義経の幕舎とばり まで、歩いて後のことにしてはどうか」
「・・・・・? よし 歩いてやる」
男は、傲然ごうぜん と起って、歩き出した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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