〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/03/24 (月) さくら すけ (二)

義経の幕舎とばり は岡の上にある。
そこまで、ひかれて行く間に、男は命が惜しくなって来たのだろうか。
あるいは、義経という人間に直接触れて、何か、思いのほかなものを感じ、すべてを自白する心境になったのかもわからない。
とにかく、そこへ来ると、彼の不敵な面構えも、急にどこか打ちしお れてみえた。容易に口を開くまいと思われていたのが、義経の質問には、案外、素直に、
「── されば、おたず ねのごとく、自分も平家の一人なれど、屋島にたてこもった一門の端ではない。申さば境外の平家筋、田舎豪族と申すべきか」
と、自嘲じちょう をうかべ、うそぶくように、自若として、答え出した。
「して、生国は」
「阿波の者でござる」
「阿波とな」
「いかにも」
彼は、義経のキラと射る眼を感じると、何か、意味ありげな微笑を滲み出して、
「── こう、対面するのは今が初めてなれど、判官ほうがん どのの兵馬とは、すでに先ごろお目にかかっておる。それもつい一昨日のこと、十八日の明け方」
「やっ?」
義経は、男のつら だましいを、一そう凝視して、
「では、なんじは、その朝、義経の兵に不意を襲われ、桜間さくらまたち を一瞬にうしの うて、身は乱軍の中を、いずこともなく落ち去ったたち の留守居 ── 桜間さくらますけ 能遠よしとお ではないのか」
と、床几しょうぎ から身を乗り出してたず ねた。
男は、瞑目めいもく したきり、しばらく答えようとしない。辛酸しんさんあか にまみれた頬骨を、遠篝とおかが りの明りに見せて、天を仰いだままだった。
が、やがて、つぶやくように、
「お察しの者に相違ない」
と、首を垂れ、
「── 阿波民部あわのみんぶ 重能しげよし の弟、桜間ノ介能遠とは、かくいう自分のことでおざるが、あら恥ずかし、かかる縄目なわめ に会って、宿敵九郎どのの前に引き据えられんとは。・・・・もはや、なんの望みもない。武士の情けよ。ただこの首を ね落し給え」
「さてこそ」
義経は、ふかくうばずいて。
「桜間ノたち に破れたを無念に思うて、単身、義経に近づき、そのおりのはじ をそそごうとの心であったか」
「言うまでもなかろう。── 兄の民部は、早くより平家にさん じて、長門国にあり、おい田口たぐち 教能のりよし もまた、屋島より伊予攻めに出で、阿波の留守は、この桜間ノ介に、任されていたものを」
「あわれ、もののふ。無念さは思いやらるる。したが、辱を忍んで落ちのびて来たほどならば、なぜ、屋島の人びとと力をあわ せ、堂々たる旗の下に、源氏へ当って先の名折れを取り返そうとはしないのか。ただ一人にて、義経を狙うなどは、およそ思慮なき匹夫ひっぷ の勇。そちほどな侍に、似合わぬことではないか」
「いや、いちどは、屋島に入って、内大臣おおい殿との や諸大将と、陣所をともにいたしたが、ちと仔細しさい もあって」
「仔細とは」
「これも、身の不覚が招いたことうえ、人を恨むにはあらねど、大勢の味方の中で、内大臣おおい殿との より、あらぬお疑いをかけられ、辱のうえに、重ね重ね、あか辱をかかせられた。・・・・いや、そのようなことは、愚痴にすぎぬ。ここで言うべきことではなかった。いざ、成敗を急がれい。首になって、何もかも忘れ果てたい」
と、桜間ノ介は、すわり直した。覚悟しきっている姿である。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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