〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/03/22 (土) ゆみ なが し (二)

義経は、どの舟かに、能登守教経のあることを察していた。
ひる には、われこそ逃げたり。今は、われより寄って、教経のりつねきも 冷やさせん」
と、馬を泳がせていたのである。
そして、うしお の中に、彼の下知する声を知った。 「── いで、会うわん」 と思うほくそ笑みが、波揺らぎとひとつに彼の頬へのぼった。
すでに夕星ゆうずつ が仰がれる。屋島の蔭はもう夜だ。海は濃藍のうらん といってもまだ足りない。波光だけが、、の、たそがれの明るさをもっている。義経は、群小の敵を捨てて、一そう大船へ向かって馬をすすませた。
だが、逸早く、敵も彼の姿を、義経と見たに違いない。 を押し、みよしをかえ し、彼の前へむらがって来た。
そして、かぎ を投げ、熊手くまで を伸ばして、彼の姿一つをよい獲物えもの と、攻め争った。
「や、や。あれやわが殿ぞ」
「危うい深入り」
うあかと、自分自分の気を取られていた源氏の面々は、それと見て、みな馬を向けかえ、義経の急を、助けに寄った。
かぎ 、熊手のつめ は、何度、義経のかぶとの鍬形くわがた やそのしころ に危険な音をカラカラ立てては運よくはず れたことか分からない。そのすきに取り落としていたのであろう。義経の弓は、彼の弓手ゆんで を離れて、波間に漂い出していた。
味方の面々が近づいてみると、彼はそれさえ見向かずに、鞭鞭むち を伸ばして、流れる弓をくら わきへかき寄せようとしているのだった。
余りにも悠々ゆうゆう たるその姿に、
「や、や、殿。なんで弓などを」
「捨ておかせ給え、そのままに」
「波のままに──」
と、みな叫んだ。
けれど、義経はやめなかった。やがて弓を波間から拾い上げて、元の小脇こわき に持った。
すでに海面はとっぷり暗い。加勢が来たと見てか、辺りの敵も沖へ漕ぎ散っている。源氏の軍勢も、水しずくを切って、みな岸へ上がった。
とともに、主だった面々は、すぐ義経を取り囲んで、
「たとえ、重代のおん弓にせよ、たかが弓一張ひとはり りではおざりまさえぬか。まちがえば、おん命をも失いましょう。今日に限って、 せぬお振舞い。以後は、おん大将も身たること、ゆめお忘れくださいますな」
と、口をそろえて諌言かんげん した。
すると、義経は、
「いや、和殿わどの たちの、思い違いぞ」
と、それに答えた。
彼の言うには。
弓が惜しいためではない、平家の手の拾われて、 「これが義経の弓か」 と言われては ずかしい。なぜならば、自分は好んで弱弓よわゆみ を使う。大将には強弓はいらないからだ。しかし武門のなら わし、敵は 「九郎とは、こんな弱弓しか引けぬ大将か」 と、見せまわして嘲弄ちょうろう の具にするであろう。そしていよいよ、源氏への戦腰いくさごし を強めるに違いない。── さればこそ、少々危険は感じたが、拾い取って帰ったのだと、笑って言った。
「さては、そうしたお心であったるか」
と、なまじな諌言を人びとはかえって恥じた。そして、その夜の陣中の夜話に語りつたえた。
ひとまず退いた陣地は、雨龍うりゆう (瓜生)おか であった。牟礼からすこし東南寄りの高地である。視野も広い。
要所要所に哨兵しょうへい を立て、また交代で夜もすがら松明たいまつ を振って巡視させた。敵に夜襲を思い立たせないためにである。
しかし彼は、一夜の露営をさだめると、思わず 「ああ、疲れた」 とつぶやきたかった。かえりみると、夕べ ── 二月十九日の夜半前 ── 大坂越えの下から長尾道を駈け続け、明け方、古高松へ火を放ってより、息つく間もない終日の合戦だった。
「われすらこうぞ。人びとは疲れつらん。こよいは深々と草のしとねに寝よ。あすの戦いに、疲れを残すな」
こういたわ って、彼も寝たが、おりおり、手枕から身をもたげた。深夜のしじまに耳を澄まし、寝つ起きつの姿であった。
「もし、敵が夜討をはか り、ここに急におそ うて来たら」
それは、肌も寒くなる空想だった。いや空想とは言い切れない。
渡辺ノ津を船出して以来、馬も人も疲れ切っている。ひとたび した将士は、蹴られても目覚めそうな寝姿ではなかった。平家は地の理にも通じている。いつ、どんな所から、闇を破って来ないとも限らない。
夕べ見た夜半の月が、今夜もある。
ふもとの哨兵しょうへい が、よく任務についているかどうか、それも彼の気がかりだった。義経はただ一人で、そっと、陣地の見まわりに出た。
── と、どこからまぎ れ込んだものだろうか。おか の小道の岩蔭にかが まり、義経の姿を知ると、首をさし伸ばして、這い出した男がある。
黒革くろかわ腹巻はらまき に、太刀のこじりをはね上げ、鉢兜はちかぶと も被っていない。ただの雑兵といってもいい服装だ。しかし、どこかに剛気なものが全身をくま どってい、年は三十がらみ、顔は、源氏の内では見たことのない顔である。そして手には弓を持ち、すでに矢をつがえていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next