〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/03/20 (木) ゆみ なが し (一)

「この能登のと の命も待たずに、牟礼むれ の岸へ上がり、おめ き戦うているのはだれだ」
「悪七兵衛景清。そのほかの、気負い者かと思われますが」
「しゃつ、もの
と、教経は、舌打ちして、
胆太きもぶと にもほどがある。あれしきの小勢にて、源氏の前へ駆け上がらば、命を捨てに行くようなもの」
一艘の上から、眼をすまして、彼は、すでに薄暮の色の陸を見ていた。
彼の胸底にある戦略からも、日いっぱい敵を戦いに疲らし、敵に一顧いっこ のひまも与えてはいけないのだ。
で、扇の的の一策がすむと、すぐ次のかか りの手を、胸に案じていたのである。
そのためには、悪七兵衛の無謀な突入も、決して無意味ではなかった。むしろ、よかったとも思われる。けれど、見殺しには出来ない。彼は令を下し、徐々に船列を近づけつつあった。── そして今、おか の悪七兵衛たちが、薙刀の先にしころ を突っかけて、打ち振り打ち振り、笑ったとたんに、源氏の軍勢は、彼らへ向かって、どっと、襲いかかる気配を見せた。
── と察しるやいな、教経は、
「悪七兵衛を討たすな。景清を助けよ。小舟の兵は、なぎさ へ突っ込んで駆け上がれ」
と、きびしく、叫んだ。
大船の上に立ち並んだ甲冑かっちゅう の列は、弓弦ゆんづる をそろえて、一せいに矢を敵へ射込んだ。
味方の矢道をかいくぐって、平軍の兵三百は岸へ駆け上がった。平家は、ほとんど徒歩立かちだ ち、源氏はことごとく騎馬。凄愴せいそう な薄暮の接戦がここに起こった。
もとより騎兵と歩兵とでは、そのぶの悪いこと比較にならない。しかし、覚悟のまえである。船上の味方は を鳴らして励ましている。平軍は、悪条件を克服してよく死闘した。粘りに粘った。馬の下に伏したり、馬蹄ばてい の間をかいくぐって敵の脚を取って不意に引き摺り下ろすなど、かつてない苦戦をやった。
けれどそれも、極めて短い時間だった。
教経の腹は、 「いま勝たん」 とするにあるのではない。敵の皆殺しは、二日後にある。味方の多くを傷つけたくないのだ。鼓手こしゅ はたちまち 「── 退け」 の合図を告げた。
が、退軍はやさしくない。
自然、乗り合うので、船と船とはからみ合い、大きくかし いだり、はず したり、岸を離れるにさえ、さんざんだった。
その間に、追っかけ、追っかけ、猛然と、東国勢は、汀の際までやって来た。期せずして、長い横隊おうたい となった馬蹄ばてい の下から、全面的に、ばっと、真っ白な潮けむりが立った。
うしお も何かは」
その中に、義経の声があって、
「ここは、遠くまで浅瀬ぞ。馬の太腹ふとばら まで、乗り入れよ。逃げ腰の敵を、撃ち余すな」
と、指揮していた。
せっかく、舟へ跳び乗ったのに、馬群には追いまわされ、その馬上からはねら い撃ちに射られて、またも岸へ逃げあがって行く平軍の兵も多かった。
「すわ、難儀」
と、教経は身ぶるいした。船底が砂を むまで、一段と、大船すべてを近づけてゆき、夕波を泳ぎまわる海豚いるか の群れにも似る敵の影を拾って、自分も矢つぎ早に、弓を引き絞った。
射つつ、矢つがえしつつ、教経は味方の舟へ、
熊手くまで を持て、熊手を持て。── 熊手や薙鎌なぎがま を以って、近寄る敵を、引っ掛けよ」
と、下知げち していた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next