〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/03/20 (木) あく しち びょう (一)

すぐ弓を小脇こわき に持ち直すと、余一は、鞍腰くらごし を浮かせて馬を楽にしてやり、手を伸ばして、馬の平頸ひらくび を撫でてやった。
うれしさを、馬にもわか っている姿である。
そして、しばらく馬にまかせて波間にあそ び、やがて元のなぎさ へ泳ぎ向かって来るうちに、彼の頬を、一すじの涙が白く垂れていた。
── 自分が射たとは思えない。
何かが自分の弓に宿ってしたことのように思われる。でなければ、せつな、あんな静かなものに心が吹き抜かれるはずがない。mた、矢がつる を離れるか否かのときに、すでに当ったという予感を持てたわけがない。
「ふしぎさよ、ありがたさよ・・・・」
自分を吹きくるむ喝采かっさい とは逆に、彼は彼ひとりの別な感激に涙が止まらなかった。
── と、味方の岸もまぢかと見えたとき、むらがりを割って出て来た伊勢三郎義盛が、
「やあ、余一どの、事のついでぞ。引っ返して、あの小憎い老武者をも、射てしまえ」

と、指さしつつ、どなった。
余一は、さっきの小舟を振り向いた。もう玉虫の姿は見えない。ただ一人、例の剽気者ひょうげもの らしい老武者が、白木の薙刀なぎなた を振りまわし、小舟の上で舞ぬいていた。余一の弓の妙技に感じ、敵なることも忘れて 「 たりや、仕たり」 と、興に浮かれている様子なのだ。
「あれをも、射よと仰せあるか」
余一は、やや不服そうだった。 「・・・・罪な」 と思われたに違いない。
伊勢三郎は、 っかぶせるように、
御諚ごじょう であるぞ」
と、一だん声を励ました。
余一は、黙って、馬をかえ した。
そして再び小舟の方へ向かって行き、今度はただの征矢そや をつがえてパッと射た。舞っていた剽気者の十郎兵衛家員いえかず の影が、くるくるっと、舟底にころがった。
ふなべり たたいて、敵をたた えていた平家も、それを見ると、急に、ひそまり返ってしまった。
くが の源氏は、二度のどよめきを揚げながら、
「── ああ、射た」
と、賞讃してやまない者、あるいは、
「いや、いや、なさ けなし」
と、ひそかにつぶやく者もあった。
その二の矢も果たして、義経の命であったかどうか。なにしろ、源氏の陣は、有頂天だった。各人の思い上がりも見えなくはない。やがて、水を切ってなぎさ から上がって来た余一の姿に、それは一そうな騒ぎになって、拍手乱舞、万雷のような声で彼をつつんだ。
しかし余一は、どこか浮かない容子だった。その顔はやや青白くさえ見えた。人びとはそれを無理もない疲労とながめた。
彼は、義経の前で賞辞を受けた。そして 「休息せよ」 と言われたのであろう。やがて後陣の方へ退さが って行った。敵味方の賞讃をあび、あれほどな名誉をかちえた ち得ながら、その姿は、狂喜するでもなく、誇りがましい影もない。
「淋しそうな。・・・・なぜ兄上は、淋しそうにしているのか?」
大八郎は、兄の容子を気づかった。そして後陣へ退った余一のあとを追って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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