〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/03/20 (木) まと (二)

いくたびか、矢筈やはず へ指をかけてみては、
「ああ、いけない」
と、余一は思いとまった。
まとかたち は、かなたの小舟の上にある物だが、しかし、ほんとの的は、自分の胸の中心にある。
── もし、射損じたらという雑念ぞうねん が、容易に追い退 けきれないのだった。それは、体のどこかを硬めている。不自然なものにしている。
海陸の敵味方数千が、鳴りをひそめて、自分の一点を見すましているという意識も邪魔であった。しいて 「── 無我にならん」 とするそれさえも、すでに雑念の一つだった。純粋な無我ではない。
こうして、心に的さえ、なかなかさだまらないうえに、漾々ようよう と揺れやまないうな づらは眼と平行線にある感じに近く、思いのほか風さえあって、波に乗せられている自分、波間に揺れ動いているかなたの小舟の扇。ともすれば、幻覚にとらわれやすい。
「あせっては成らじ」
と、余一は自分へ言った。それはもう自己への敗北感に近い、ともすれば、視覚すらも乱れてしまう。
視覚の定まらないのは、夕陽と波映のせいだった。ふと厚い雲のまく にそれが隠れた。
一瞬いっとき 、海は青い夜みたいな沈みを呈した。それは、一たん矢つがえを休めて、余一が、駒を屋島の方へ向けて泳がせてゆき、また、馬首をめぐ らしつつ引っ返して来たときだった。
なんとはなく、余一の胸に 「今だ」 という直感が走った。
── とともに、何か、吹きぬかれたような、すがすがしさとともに、身のうちから、 「南無なむ 八幡はちまん 大菩薩だいぼさつ
と、自然に口へ出、つづいて、
「年々、奉射ぶしゃ し奉りたる香取の神、もし今もって、迷吾めいご を抜けぬわが弓ならば、矢を海中へ折り捨てて余一宗高に死をくだ し給え。またもし、少年の日より、年ごとの奉射ぶしゃ を怠らざるの い、今日にあらしめ給うなれば、あの扇の真ん中に、余一の矢を てさせ給え。── あわれ、ふるさとの那須なす湯泉ゆぜん 大明神だいみょうじん 、亡き父上や母たちも護りてよ」
と、祈念きねん するともなく、念じていた。
引きしぼられた弓は、まん を描いた。矢柄やがら やっこく彼の右のまなじり でて眼なりに通って行き、その矢バネは深々と耳のうしろまで引かれていた。
が、まだ放たず、余一はねら いをすましたままだった。扇との距離は七、八だん 、矢頃と思われた。それはまた当る気がした。なぜか素直な中にそんな暗示がふと心をかすめたのである。
キ、キ、と弓が いた。つる も折れるかと見えたせつな、ぶんっと、弓返ゆがえ りして、矢は離れていた。あの異様なうな りをふくむ鏑矢かぶらや なのだ。長鳴りをひいて飛んで行った。
当った。
かなめ際にでも当ったのか、矢は、なお飛んで先の方へ消えたが、扇ははじ かれたように空へ揚がり、そして、翻々ほんぽん と、裏を見せ表を見せつつ、波間へ落ちた。
「・・・・・、・・・・・」
おそらく、ひそかな予想では、たれの思いも当っていなかったに相違ない。一瞬は声もない空間だった。ただ、ぽかんと、飛扇ひせん のひらめきに魂を抜かれたかたちであった。
が、われに返ると、
「あっ、射たわ」
「射たり!」
と、敵味方もなく暴風のような歓呼を揚げた。それは暮れかかる海づらに海彦うみびこ を呼んだ。
“── 沖には平家、ふなばた をたたいて感じたり、くが には源氏、えびらたた いてどよめきけり”
とは、古くから平曲を語り伝えた琵琶びわ 法師ほうし が好んでばちろう すところであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next