〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/03/18 (火) まと (一)

見方の眼は、余一ひとりに集められた。
いや源氏だけではない。沖の平家方の船列も、いつか紅旗を立てならべた群影を一そう岸へ近々と寄せていた。そしてその船上にある無数の眸も、ここのなぎさ に立ち出た余一の影を遠くにとらえて、
「すわや、扇を射てみせんと、源氏の内から一騎、浜のなぎさへ進み出たぞ」
と、おそらく、鳴りをひそめているのではなかろうか。
── 余一宗高はいま、味方の静かなどよめきの中を割って、牟礼むれ の白砂にただ一騎立った。駒のたてがみに、風が少し見える。
彼は、かい抱いていた滋藤しげどう の弓を、左手ゆんで にかまえて、二度三度、ブンと弦試つるだめ しの空鳴そらな りを繰り返した。
── よし。
と思ったようである。
かぶとは脱いで、高紐たかひも(背へ) 懸けている。籠手こて を締め直し、あぶみを踏み調べ、もいちど自陣の方をちらと振り向いた。中には弟が見える、義経がいる、友輩ともばら がいる。あるいは、ふたたび生きて会えないかも知れないのだ。 「・・・・・さらば」 と、その顔は、さいごの決別わかれ を告げているようであった。
やがて、きっと馬の首を沖へ向けて、自陣の人びとをその後ろ姿の後ろにおいた。
── 駒はしずしず波打ち際へ歩を進めて行く。
だが馬は、びょう としたうな づらを前にすると、ひたと、水際にひづめを突っ張り、動く気色も見えなかった。馬が急に耳を伏せるのは馬の恐怖か倦厭けんえん の表情である。
「・・・・・・」
余一は、右の手をさしのべて、子をあやすように、馬のどこかを軽くたたいている。
そして手綱をめぐらし、いちどなぎさ から離れ、チ、チ、チ、チとくちびる を鳴らしつつ、浜のかなたからこなたを地乗りして巡った。
馬の機嫌を直してから、余一はぐたたび水際へ向けて前と同じ姿勢をとった。
馬は鞍上あんじょう のひとのただならぬ意志を知ったようである。余一のかかと が馬腹を蹴った。ざっと白い泡沫ほうまつ が花と咲いて左右へ潮のうねりを描いてゆく。── すでにその影は岸を離れ、浅瀬を駈け、やがてくら の辺まで潮にひた し、悠々ゆうゆう と泳ぎ出ていたのである。
夕雲が美しかった。
真っ な日輪をもてあそ ぶ雲の や袖だった。雲が陽を隠しきると、雲のふち はみな紫ばみ、うな づらも燦々さんさん波映はえい を消して、いちばん深い色に変わる。
べつの一扇いっせん の日の丸が、波間の小舟の上にあった。
玉虫は、そのまと の下に、立っている。彼女の眸がどんな感をこめていたのかは分からない。ただその柳色の五衣いつつぎぬ の袴、白い顔が、小さくあざ らかに望めるだけだった。
潮は今、満ち潮のさかりごろか、屋島の岸の水位は上がっていた。余一の影は、鞍腰くらごし まで水にひた り、駒はしきりに平頸?ひらくび を振り?もた げている。
おりおり、たたみ寄せてくる沖波が、その影に白いしぶきをぶつけた。いぶきは責め馬のムチでもあった。駒も必死に紺をかき分けて行く。すでに扇の小舟をさしてだいぶ近づいた。── 矢頃やごろ (距離) もよしと見たのであろうか。余一の右手?めて は、えびらの鏑矢?かぶらや を一筋抜いた。そして、かっきと弓に加え、矢と弓とを十字につがえてかざ すが如く眉より高く持った。矢バネを潮に濡らさないためであろう。
── それまで、ただ、かたずをのんだまませき としていたくが の源氏三百余騎は、
「・・・・あっ」
たれからともない大きな全体の揺れを見せ、
「まだ、早い」
と口走り、われを忘れて、
「余一どの、余一どの、矢頃は遠すぎるぞ」
「もう一段も二段も、沖へ馬をすすませて射給え、もそっと、馬を乗り入れよ」
と、叫びあった。昔の一段とは、今の六間のことである。
しかし、聞こえるはずはない。
その声ばかりでなく、天地の物音、すべて、余一の耳の外であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next