〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/03/18 (火)  いちゆう うつ (二)

射損じれば、源氏のはじ 。そして、その身も、生き辱さらして生きてはいられない。
だからこそ、いつもは功にはや り立つ東国武者も、押し黙ったきりで、名乗り出る者もなかったのである。── 余一すらも、自分が信じられないで、差し控えていたほどだった。
それなのに、そんな難事を、弟があえて買って出たので、余一は、しまった、とさえ心には思ったことにちがいない。
が、もう取り返しのつくことではない。すぐ余一の腹はきまっていた。
弟は、ここで死ぬべきではない。いや死なせたくない。
自分と違って、弟は、九郎の殿が、奥州下りの、そもそもの日から朗従であり、いわば無二の家来のひとりである。死ぬならば、この先、主とともに死ぬがいい。また、栄えるなら、主とともに栄え、那須の家も、継ぐがよい。
それにひきかえ、自分はもともと、鎌倉どのの命で、梶原かじわら麾下きか に配され、その梶原とは、どうも、死をともにするまでの心にはなれないのだ。だが、やがて梶原景時も、これへ参陣してくることは間違いない。
── むしろ弟に代って。
と、余一は思い、梶原の為に働くより、義経の馬前で散りたいとも心にねが っていたのである。
が、義経を始め、周囲は彼の愛情だけを みとって、日ごろの彼の憂鬱ゆううつ には気づかなかった。
「あっ、兄上。なにを仰せられます、あなたは」
大八郎は、あわてて、兄の言葉を打ち消した。そして自分を、前へ進めかけたが、余一もまた、
「いや、そちの腕には、ちとむずかしかろう。そちの一身だけですむ儀なら見ておるが、源氏の名にかかわることぞ。未熟を忘れて、慢じるな。ここは兄にまかせい。兄にまかせて、控えておれ」
「で、でも」
「だまれと申すに」
大八郎は、ぽろりと涙して、兄のきびしい顔つきの下に、黙ってしまった。
余一は、義経の凝視を、あえて仰いで、
「殿」
と、あらゆる思いをその眸一つにこめた。
十年の ── 長い長い間の結び。── それはきわめて薄い主縁に似たものであったが、心はつねに忘れずに来た大利根の上の一舟いっしゅう の誓いを、いま果たしうるものとして、彼の眸は、よろこびに濡れているかのようだった。
「── 御異存はございますまいか。余一へおお命じ給わりましょうか」
「・・・・・・」
義経は、ただ、大きくうなずいて見せた。ふと、言う言葉も出なかったのである。
けれど、余一が勇躍して、すぐその場を去ろうとするのを見、はっと、大利根の遠い昔から、牟礼むれなぎさ へ、 めて返ったように、
「余一っ」
と、呼んだ。
もいちど、その眉を見たいとするように、呼び止めたのである。
「はっ。・・・・なんぞ?」
「いや。良い馬はあるか。おこと の馬は、乗り疲らせてはおらぬか」
「飼い馴れた那須の鹿毛かげ 、いささかもまだやつ れてはおりませぬ」
えびら には」
「国を立つおり、香取ノ宮より受けてまいりました奉射ぶしゃ鏑矢かぶらや 三すじ、中黒なかぐろ征矢そや に添えて、持ちおりますれば」
「おお、その鏑矢でいたすのか。敵も味方も、いや、香取の奉射ぶしゃ の神も御覧ごろう ずらん。心してせよ、余一」
「はい」
彼は、彼の持つ駒のそばへ寄って行った。
ゆらと、その姿が、馬上に見えると、全軍の鉄騎と鉄騎の揺れから、ため息とも嘆声ともつかない重量のある衆音がわき揚がった。同時に、それらの武者たちは、彼の馬の前を両方へ退き、海への道を、さっとひらいた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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