〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/03/17 (月) たま   むし (一)

「やあ、あれを見よ。あの小舟を」
源氏の武者は口々にいぶかりながら、沖を指さしたり、まばゆげにかぶとの眉廂まびさしし小手こて をかざしあった。
伝え聞いて、はるか後陣こうじん の後陣にいた者までが、
「そも、何事のあるや」
とばかり駆け集まって来、浦和うらわ のなぎさなり に、こま をならべて、
「あれや一体、何の小舟ぞ」
旗竿はたざお の先に高々と、日の扇をかか げておるが」
「その下に、美しい小女房一人、神妙にたたずみおる様子、軍使いくさづかい のようでもなし」
「はて、なんのなぞ か」
と、平家方の意志を、ただ揣摩しま 憶測おくそく して、どよめいた。
は、屋島の肩へうすづきかけ、海には一刷ひとは けの夕霞ゆうがすみ が懸かっている。
そのせいか、平家方の船陣は、さっきより実際は近づいていたのだが、眼には遠くに見えた。そして、こなたへ ぎ向かって来る問題の小舟だけが、ただ一そう、まったく別な色調の物みたいに、あざらかだった。わけて、その上にかざ している金地の日の扇が、源氏方の眼をなぶ るが如くキラキラしている。
よく見ると。
小舟の上の小女房は、柳重やなぎがさ ねの五衣いつつぎぬ の袴をはいているが、その小女房のほかに、二人の武者も乗っていた。
ひとりは老武者らしく、白木の薙刀なぎなた を杖について、とも に立ち、もう一人はその者の郎党であろう。 をあやつっているのである。
近づくほどに、小女房のまゆ や武者のおどし の色まで分かってきた。そして、およそ岸から一町半ほどの距離で止まった。ゆるやかに、みよしを向けかえ、舟の姿を横に見せて、そのまま漂いにまかせている風だった。
義経は、近くに馬を並べていた後藤兵衛実基や、ほかの諸将をかえりみて、
「小舟の上より、何か申しておるらしい。聞こゆるか」
と、たずねた。
人びとは、異口いく 同音どうおん に、
「何も聞こえませぬ。何か物申すらしい老武者の身振りは、それと分かりますが」
と、答えた。
「実基」
と、義経はふたたび、
「いたずらめいた平家人へいけびと の風流。われら東国武者は気がみじかいぞ。和殿、馬を乗り入れて、小舟へ近づき、そも、いかなる意味か、敵の申す旨を、ただして来い」
と、命じた。
すると、後ろの方で、弁慶が言った。
「いや、それには及びますまい。無用無用」
「弁慶か、なぜ、無用ぞ」
「敵は、高々と扇をかか げ、扇の心を読めといわぬばかりなのに ──」
「では、どう読むぞ、そちは」
「射よ、との心でございましょう」
「さては、これ射てみよと、いど んでおるものか」
「さん候う。言葉の外に、言葉あるを、都人みやこびと の風流とかいいまする。さるを、わざわざ、われより馬を泳がせて、物問ものど いなどしたら、血のめぐりの悪さよと、かならず、敵はわら いましょうず」
「さても、小憎こにく仕打しうち ちかな。── たった今、このなぎさ に戦って、引き分かれたばかりなるを、その痛手もなきか如く、おもむき をこらして、扇の的を、射てみよなどとは」
義経は、馬上から、眼幅めはば ひろく、大勢を見て、
「やよ、殿輩とのばら 。── 平家はわざと、見せかけの余裕ゆとり を誇って、これ射てみよと、われへ向かって、矢試やだめ しを うるものと覚ゆるぞ、射ずば、これ幸いと、わら う腹にてあらんずらん。── ぞ、あの扇のまと を、射て落す者はないか。東国武者の名を負うて、小ざかしき敵のこしら えを、ひと矢に射て砕く者はなきや」
と、耳あか らめて言った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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