そもそも、義経があの荒天
と風浪を見ながら、摂津の渡辺ノ津を船出せん、と意を決したとき、当然、従う者は股肱ここう
の郎党と、鎌倉の精鋭にかぎり、陣医の麻鳥などは、 「── ともに」 と願い出ても、 「それには及ばぬ」 と、従軍は許されなかったものだった。 けれど、麻鳥は、 「かかるおりに、ともに参らなければ、陣医として、軍にいるかいはありませぬ」 と、たって志願し、麾下きか
の一艘に乗り交じって、ともに阿波の勝浦までは渡って来た。 まず、そこまでは、船なので、あの荒天も一しょに越えて来られたが、しかし、その朝からの、桜間さくらま
攻めの急襲きゅうしゅう だの、昼夜もない阿讃あさん
国境の踏破とうは などは、とうてい、武者でもない彼のよくなし得る業わざ
ではない。 渡辺ノ津にいたときから、彼には、十人の手伝いが、部下として付けられていた。 つまり看護兵みとりへい
である。陣医組といっていい。 組頭くみがしら
は、鵯越えの合戦のさい、麻鳥に救われて以来、麻鳥について、まったく彼に心服して仕えていた元平家の雑兵、駄五六だごろく
だった。 義経の急進撃にとり残され、麻鳥は、ちょっとそのさい、途方にくれたが、駄五六は、あわてもしない。 落伍らくご
には馴れている。 「先は、屋島の裏道と、分かっておりまする。わららの組は、そこへさして、まっすぐ行けば、ちょうどお味方に追いつきましょうで」 時にとって、駄五六の凡下思案ぼんげじあん
も、なかなか趣おもむき があり、捨て難い。 彼の言うがままに、陣医組の十人は、阿波あわ
から讃岐さぬき 越えを、馬の背ながら、いともトボトボと後から続けていたのである。 いま、義経が、 「・・・・よくぞ」 と、彼の顔を見るなり言ったのは、麻鳥も軍に付いて来たなどということは、勝浦の朝以来、まったく、忘れ果てていたからであろう。 「まず、おつつがものうて」 麻鳥には、それだけしか、言えなかった。 ここへ着くやいな、凄愴せいそう
な実戦のあとをすぐ眼に見、血の香のただよいに面を吹かれ、日ごろから 「なぜ人は、人間同士で、血を流しあわねばならないのか」 を疑い、それを極端に、人間の宿業しゅくごう
と倦厭けんえん している彼の魂には、なんとも耐えられないものが、身のうちで哭な
いていた。 「いや、思い出せば、ぜひ陣医として、義経とともに西下してくれと頼んだのは、堀川にいたときからの約束であったの」 「さしたるお役にも立つまいかと存じますが、あわれな戦場のいけにえたちを、少しでもお救い出来れば、この麻鳥にとっても、大きなよろこびでございますゆえ」 「今日のみでなく、戦はなお、つづくであろう。きっと、頼みおくぞ」 「承知いたしました。・・・・なれど、かつて、一ノ谷の御合戦のおりも、お願いしておきました通り、武門には敵味方もあれ、医には、源氏も、平家もありません。・・・・みなおなじあわれな人びとです。時により、平家の傷負てお
いも助けとらせますが、その儀は、このたびも、おゆるしくださいましょうか」 「あらためて、申すまでもない。── 阿部麻鳥は、義経一人の味方なりとは思うてはおらぬ。医師くすし
麻鳥は、源氏にもあらず、平家にもあらず、なべて世の人間の味方であれ。自身、地獄の仏と思うて、情けの見舞いとして、働いてくれい」 「それを伺って、いささか、胸の落ち着き得ました。ありがとう存じまする」 「では、後刻また会おう」 義経は、なお、継信の弔とむら
いに心をひかれているらしく、すぐ彼も陣後へ歩み去った。 |