〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/14 (金) つぐ のぶ の 死 ・ きく おう の 死 (二)

「や、や。継信つぐのぶ ぞ」
悲痛な声で ──
ぞ、継信を、抱き取ってやれ」
言ったのは、義経だった。
射落とされた佐藤継信は、義経のすぐそばにいたのである。
しかも、教盛の矢が、まと の義経へ飛んで来た刹那に、継信は、われから身をもって義経の前に立ち、あるじのたて となって、死んだのだった。
たれよりも、その一せつなを、目に見たのは、義経であった。── 当然 「もし、継信なかりせば」 と、命拾いの一瞬をも、義経はあわ せて、ぞっと、毛孔けあな で知ったに違いない。
「ざ、ざんねんっ」
と、かなたの教盛が叫んだのと同時に、源氏の群れの中では、
「・・・・わっ、兄者人あんじゃびと っ」
と、泣くようにわめ いた者があった。
継信の弟、佐藤忠信に相違ない。
見ると。── 間髪をいれず。
矢に当たった継信の体へ向かって、教盛の朗従 ── わらべ 武者の菊王丸が、猟犬かりいぬ のような素迅すばや さで、飛びかかっていた。あるじの教経に代って、すぐ、佐藤三郎兵衛継信の首を、かっ切ろうとするものらしい。
「うぬっ」
忠信は、兄の首を、 らせまじと、まなじり ふかく、矢を引きしぼって、びゅっと放った。
菊王丸は、継信のかぶと首へ、手をかけたまま、
「── ぎゃつ」
と、ひと声発して、地へころがった。
それを見ると、菊王の主人教経は、
「あな、不愍ふびん
と、とっさに、馬を駆け寄せ、右手をのばして、菊王丸の体を、くら わきへ拾いあげた。
その不敵な行為を見て、
「得たり」
怨敵おんてき
と、忠信も、ほかの武者も、いちどにつる を切って、教経へ射あびせたが、教経は、一転、馬をかえ すかと思うと、浜の方へ一気に駆け戻り、なぎさ の小舟のうちに、菊王丸の体を、馬の上からほうり投げた。
そして、すぐまた、
「もいちど、引っ返して」
と、ひとみの中の義経へ向かって、二度の決戦を思うらしかったが、そのとき、八栗やぐり のすそや、屋島の下の山蔭で、とうとうと、味方の退 き太鼓が鳴っていた。
── ころを計って、手ぎわよく、沖へ退 かん。機と見たら、合図をせよ、とは彼自身が、出撃の前に、命じておいたことではないか。
「・・・・そうだ」
と、急におもて まして、教経は、
「── 伊予引き揚げの味方が、着きさえすれば、東国勢はふくろのねずみ よ。── 二日の間は、ただ敵がその事に気づかぬよう、攻めては退 き、退いてはいど み、ここの浦に、引き寄せておけばよいのであった。何を、焦心あせ って、義経の首一つに」
自分の短慮をわら いながら、彼は馬上からにわかに、牟礼むれ 一帯の味方へ、退却を、ふれ出した。
もともと、それを予期しての上陸だった。なんらの混乱も起こらない。退 き足は、あざやかだった。全軍、またたくまに船へ移り、捨て矢を陸へ放ちながら、潮の中に、櫓声ろごえ を合わせて、沖なる陣へ、引き揚げて行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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