〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/13 (木) つぐ のぶ の 死 ・ きく おう の 死 (一)

能登のと どのだ」
「能登どのぞっ」
彼の勇姿は、どこを駆けても、すぐ分かった。
かつての坂東ばんどう 武者は、よろい具足も小袖こそで も、じつに質素で、ひと目でそれと分かったものだが、近年の東国勢は、みな華やかになっている。いずれが平家、いずれが源氏とも、見分けがつかない。
そうした乱軍の中で、教経のりつね の姿一つが敵味方の目をひいたのは、彼が唐風からふうよろい や、唐巻染からまきぞめ (しぼり染) の小袖を着、太刀や馬具のことに見事だったせいばかりではない。
彼が行く所、まるで無人の境に見えた。鉄騎の壁も、蹴散けち らされ、その矢前やまえ に立ち得る敵もなかった。
すでに、彼の駆けた後には、十騎以上の敵が、射捨てられている。しかし彼の目ざす者は、義経以外のたれでもないのだ。
「やあ、そこ退 け、そこ退け、雑人輩ぞうにんばら に用はない」
教経は。残り少ないえびら の矢を射惜しむかのように、
「これは、門脇中納言の一子、能登守ぞ。はるか来つる九郎どのの勇を でて、一騎と一騎、人交ひとま ぜもせず、会わんとは思うなれ。九郎どのへ見参せん。九郎判官は、いずこにあるや」
と、ほかの敵へは、眼もくれなかった。
義経は、さっきから、上陸して来る平軍を、序戦に悩ませて、なぎさ から半町ほど後ろの、一叢いっそう の松の木蔭に馬を休ませていたが、
「おお、あの平家武者は」
と、こなたへ向かって来る若獅子わかじし のような姿へ、きっと眼をつけて ──
「さすが、健気けなげ さよ。あれなん、聞こゆる能登どのか、望みにまかせて、一戦ひといくさ 交えてくれよう。そこ開け、味方の殿輩とのばら
と、にわかに馬を ろうとした。
附近には、江田源三、熊井太郎、伊豆有綱、武蔵坊弁慶、佐藤継信、忠信などが、一面に馬囲いを立て並べていたが、
「や。お待ち候え」
と、弁慶がまず、義経の前を、立ちふさいで、
「お旗の下に、人もないではおざらぬ。阿修羅あしゅら となった捨身の敵に、君御自身、おん身をさらすなど、大将軍の振舞とも覚えません」
と、押しとどめた。
義経は、いつになく、
「いや、敵も水軍の大将ぞ。むかし、待賢門たいけんもん の戦いには、悪源太義平どのと、平家の嫡男小松殿 (重盛) とが、一騎と一騎の勝負をなしたため しもある。── 能登どのだに、討ってとらば、平家は、力を失うて、つい え去らん。無用な長戦ながいくさ に、多くの死者傷負てお いを出すよりは、どれほどましか。そこ退 け弁慶」
と、叱咤しった した。
けれど、ほかの諸将もみな、どっと義経の前に、厚い鉄陣を作りあって、動こうともしなかった。
そのまに教経は、もう、ついそこまで、迫っていた。人も馬もすでに血に酔っている勢いだった。
「九郎どのは、どこ、出合い候え」
と、求める声もシャ れて、何か、人間の叫びとも思えないものがある。
「やっ、推参すいさん
「駆け寄らすな」
源氏の数騎が、矢前やまえ に出た。
ひとりは、しの鏃下やじりさ がりをくぐ って、
「組まん」
と、教経へ、ぶつかって行ったが、教経は、身ひねって、敵の顔の真ん中へ、びゅんと、一矢いっし を与え、
可惜あたら 、犬死にすな」
と、もう次のやじり を、次の敵へ、向けていた。
つづけさまに二、三度、ゆづる が鳴ったと思うと、彼の矢先には、彼の方へ顔を向けてくる敵もなかった。そして、どっと左右へ退 き開いた馬群のかなたに、義経の姿が、ちかっと見えた。
「おお」
と、教経は、なお、駆けつめて、 「── あわれ、平家の氏神うじがみ厳島いつくしまみ 大明神だいみょうじん 、この一矢に、敵将九郎判官を射とめさせ給え」 と、念じるほか、何ものもない だった。
びゅんーっ
と、弦音つるおと がした。
「── あっ」
と、矢面やおもて の諸将も、思わず揺れた。
ある者は、身を伏せ、ある者は、馬を らした。烈しいうな りをもって、その上をかす めて行った矢は、一将の左肩部さけんぶ を、射抜いた。どうっと、その者の体は、馬の背からまろび落ちた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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