〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/13 (木) そ こ 退そうら え (五)

さっきから、波上はじょう の一艘に、なお、そうまなこ をとぎすましながら、船屋形をたて に、くが を見ていた平家方の一将がある。
能登守教経だった。
── 落ち着いている。
かぶとの眉廂まびさしかげ となっているその白皙はくせきおもて と、りりしいくち もとは、何かを、捜し求めているふうだが、しかし、おりおり矢うなりの中にさえ、さっきから、身じろぎもしていない。
いかにも、心のうちに、勝算がありげな容子ようす である。
もう二日後には、三千の味方が、伊予路から引き返して来よう。かれら源氏の背後に、突如、その紅旗が見えたときこそ、ここにある限りの東国武者が、降伏か、殲滅せんめつ かの、さいごを必然とする日なのだ。
── あわてることはない。
教経の眸は、それを反覆しているように、静かであった。
だから今は、われから仕懸けたいくさ でも、じつは源氏をこの浦にひきつけておくためのなぶ り合戦に過ぎないのだと、彼は充分、知っている。── そう自分にも言いきかせている。
にもかかわらず、彼の面には、ときどき、足もとの波映はえい ともつかず、何か、むらっと、かげろうの如き殺気がしきりに動いていた。。
くが の乱軍のなかに、たとえば、密林を けるきれいな鳥の羽色のように、源九郎義経らしき華やかな影が、彼の眼に、ちらちら見えていたからだった。
── それもある。
たしかに、それも彼の血をたぎらせたにはちがいないが、もっと大きな理由は、目前に、自分の部下が、かばね を積んでいることだ。
一つの策ぞ、と心得ていても、やはり戦は、犠牲なしには出来ない。一個の流す血の色にも、千人を盲目にし、万人を怒らす何かがある。まして、岸へ上がった平家勢は、みるみるうちに、東国武者の鉄騎の下にけち 散らされていた。
ことに、義経とおぼしき人の前に駆け向かった味方は、その太刀に ぎられたり、 り下げられて、たたかれた花のように、くれない の露命を辺りに散らしていた。
「── 菊王っ」
もう、たまらなくなったものに相違ない。教経の荒い語気と一しょに、彼のこうべ が、さん として、うしろを向き、
「その馬立ち船、いやその纜綱もやいずな を、ぐっとこっちへひいて来いっ。そして、駒の口を取れ」
と、命じた。
日ごろ、彼がそばから離さず可愛がっていた童武者わらべむしゃ の菊王丸は、すぐ、主人の突っ立ている船屋形のわきへ、馬立ち船を引き寄せた。
ふなべり から、駒の背へ、ひらと、 び乗るやいな、教経は、ザザザと、修羅しゅらなぎさ へ駆け上がって行き、
「やあ、そこ退 き候へ。矢面やおもて雑人ぞうにん ばら」
と、鉄の弓手ゆんで を突き出した。
そして、あたりの東国武者を目がけ、びゅんびゅんと、射ながら駆け回った。
騎馬は、東国武者が無敵と誇るところのものだが、平家の公達にも、馬下手うまべた ばかりがいたのでがない。
教経のりつね は、水軍の術に けていたばかりでなく、陸戦の雄でもあった。わけて、騎射の上手で、近矢ちかや を得意とし、太刀や長柄でとどく近さまで敵に馬をぶつけて行って、いきなり、その顔や胸板に、一矢をくれ、同時に、まるでちょう か鳥のように、鮮やかに馬をかえ すのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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