敵味方の陣頭から、おのおの一人ずつ、気負
いの者が出て、威猛高いたけだか
な戦名乗いくさなの りをあげるのは、まず、われの宣言と、士気の昂揚こうよう
をかねたもので、合戦に先立ってよく見られる当時の戦闘形式といっていい。 「しゃつ。すでに、けさの一戦にて、金子が弟、親則ちかのり
の矢を食らって、総門を逃げ落ちし亡者もうじゃ
めが、わが殿に対して、舌長な広言を ──」 すぐ源氏の中から、こう、わめき返した者がある。たくましい黒革くろかわ
ぞっき・・・ の甲冑かっちゅう
を馬上に見せつつ汀なぎさ へ駆け出して来たその一騎は、 「いうもおろかなれど、わが大夫判官たいふのほうがん
どのは、源家の嫡弟ちゃくてい
、なんじら如き者と、矢交やま
ぜ刃交ぜを争う君には非ず。かくいう伊勢三郎義盛が、あしろうてくれよう。楯たて
の蔭にて、臆病腰おくびょうごし
の雑言ぞうげん やめよ。物申すなら、これへ出て申せ、次郎兵衛とやら」 と、あざ笑った。 越中次郎兵衛は、早くも、馬立ち船へ跳び移って、その中の一頭の背へ身をおき、 「おうっ、そう申す男は、以前、伊勢の鈴鹿山すずかやま
にて、山賊など働き、後には、江ノ浦の辺りに、漁師すなどり
などしつつ、細々ほそぼそ と、妻子を育はぐく
みいたるあぶれ者の後身よな。さすが、流浪るろう
の殿とは、似合いの主従。首さし伸べて待つがよい」 「やあ、人は知らじと思うてか、北国の倶梨伽羅くりから
に討ち負けて、乞食こじき しつつ、からき命を拾って都へ逃げ帰りし醜武者しこむしゃ
が、人なみなる申し方よ。二度と、広言の成らぬように、伊勢三郎が、その息のねをとめてやる。いで参れ、醜しこ
の四郎兵衛」 「なにを」 盛嗣もりつぐ
の姿は、馬もろとも、真っ白なしぶきに包まれた。馬立ち船の上から浅瀬を駆け渡り、おめきかかって来たのであった。 ここの浦曲うらわ
の水際は、いちめんといってよいほど、白波、しぶき、人馬の喊声かんせい
が、ほとんど、時もおなじに、わき上がっていた。 すでに、朱あけ
をなして、屍かばね を波に洗われている者、絶叫のもとに、一矢いっし
を喉ぶえに突き立てられて、のけ反ぞ
る馬、馬上と馬上との白刃の閃々せんせん
、組んずほぐれつの地上の格闘、それを、一幅の絵巻と見るには、余りに凄愴せいそう
であり、これを人間所業の一齣ひとこま
と観るには、余りにも悲しい約束ごとであった。 |