〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/12 (水) そ こ 退そうら え (二)

ちょうど、干潮時の底もすぎて、やや上げ潮を呈して来たころである。
まだ、牟礼むれ の岸は、かなり遠くまで干あがってい、屋島との間も、干潟ひがた の地肌を見せていた。
義経は、磯松の木蔭を駆け出して、
「近づく敵に、なぎさ を踏ますな。くが にも取りつかぬ間に、射てたおせ」
と、麾下きか へ呼ばわった。
彼につづいて、波打ち際へどっと駒首をそろえた武者たちは、矢つがえ忙しく、
「ござんなれ」
と、 ぎ寄る群れに、矢ごろをはか って、待ちかまえた。
すると、まだ距離として、到底、矢も及ばない所で、平家方の船群は、突然、二手にも三手にも分裂し、西へ分かれた一組は、屋島の岸へ上がり、東へ離れた兵船の幾艘は、八栗半島の岸 ── 五剣山の下あたり ── 続々と兵をあげ始めた。
「や、三方からこれへ攻めかかる備えとみゆるぞ」
源氏の軍勢とその白旗は、ひとつ所にかたまって、吹きそよ がるる穂のように、おめきあった。
「ここは危うい。三方からつつまれては」
田代冠者たしろのかじゃ 信綱のぶつな の口走りらしい。
それにつられて、一角の厚い人数が、早くも、外の足場を求めるように、なだれかけた。
その駒足へ、するどく、
「みだりに、じんみだ すはたれだっ」
義経の叱咤しった が飛んだ。
「敵は前に見ながらも、われには船を持たぬ惜しさがある。と同様に、敵はいととぼ しき馬数うまかず しか持っておらぬ。さるを、かれよりくが へ向かって戦いを挑んで来たのは、何よりの倖せだ。── 見よ、三面の敵とても、屋島、八栗やぐり上陸あが った敵は、すべて馬を持たぬ徒士かち のみではないか」
「おお、いかにも、かなたへ上がった兵は、みな脚立あしだ ちの武者ばかり」
「田代殿は、五十騎にて、八栗の口の防ぎに立ち候え。いかに敵よりいど み誘われても、騎馬駆けならぬ小道にまでは、ゆめ踏み入り召さるなよ。── また、屋島の干潟ひがた は、後藤実基、よど忠俊ただとし 、金子十郎たち五十騎ほどにて駆け向かえ。そのほかは、ここのなぎさ を、動くまいぞ。義経も、敵の真向まむ きにいて、近寄る平家の健気者けなげもの に、一と合戦してとらせんものを」
彼の声は、その小柄こがら な体に似ず、よくとお った。
また、軍勢のうちの多くは、兄頼朝の御家人であり、軍目付いくさめつけ たるひとすらあるので、りん たる命令語にしても、ことばはきれいで、こんなさいにも、麾下きか の感情というものを忘れていない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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