時忠は、一瞬、 「しまった・・・・」 と、言いたげなふるえを、全身のどこかに隠した。 しかし、彼のことである、あわてはしない。 ちらと、妻の帥
ノ局つぼね へ、眼じらせしてから、むしろ、教経のりつね
の兵船を、待ちかまえるかのように、落ち着き払っていた。 それに反して、血気な教経は、はや、薙刀なぎなた
の持ち方にも、殺意を示し、船上の部下もみな、矢つがえを見せながら、打ぶ
つかるばかりな勢いで、ざっと、舳みよし
を寄せて来た。 「やあ、その船待て、水夫かこ
、楫取輩かんどりばら も、その船を動かさば、ただちに射殺すぞ」 教経は、まず、こい威嚇いかく
しながら、あとの兵船が、そこを取り巻くのを待って、 「──たれだっ、そも何やつだ。この教経の命も待たず、みだりに、かかる場所へ兵船を漕こ
ぎまわし、臆病風おくびょうかぜ
に吹かれた怪しげな者どもを、いずこへか、人目を忍んで運び去ろうとするやつは!」 と、腹の底から怒って喚わめ
いた。 彼と時忠とは、もうたれか分からない距離ではない。すでに、その眼と眼では、するどく、絡から
み合っているのである。 それを、それといわずに、教経がわめいたので、ほんとに、おかしくなったのかも知れない。 時忠は、例の調子で、 「おお、そこへ見えられしは、能登どのか。・・・・能登どのは、船手の大将、わきまえぬではないが、かかるおりだ。いちいち、御辺の許まで、使いを立ててもおれまい。ははは」 と、軽く受け流した。 教経はまだ白面の二十六歳、時忠とは、親子ほど年が違う。 それに、時忠は、故入道清盛の義弟、二位ノ尼の実弟でもある。 何か、気圧けお
されないわけにはゆかない。 が、今日ばかりは、時忠の心底を見届けた気がしたのだ。いや、その異心は、出来心でなく、すでに日ごろからのものであることも、今は明白だ。 ──
よしっ、斬ってしまおう。 一門、生死を共にと誓っている中に、一個の異端者を、異端と知りながら見逃しておくのは、全平家の戦いを、無意味なものにし、犬死させることにほかならない。 ──
斬ろう。斬ってしまうに如し くはない。 たとえ、一門の長者であり、また、叔父に当る人ではあっても、許してはおけぬ。 ことに、今の笑い方は、何事か。
「太々ふてぶて しさよ」 と、教経の若い血は、かっとなった。 「やあ、口は調法、どうにでも言えば言える。したが、人目もないかかる磯辺へ、主上や女院を誘拐かどわか
し奉って、そも、いずこへ漕ぎ渡られるつもりであったか。御返答によっては、平家一門に代って、容赦はならん。さ、どこへ漕ぎ逃げる気であったか、真っすぐに申されよ」 「だまれ、門脇殿かどわきどの
の小せがれ」 「な、なにを」 「味方誹そし
りは慎つつし めと、日ごろ、兵にも申す身なればこそ、笑い流しておくものを、何事ぞ、今の雑言ぞうごん
は」 「いや、雑言ではあるまい。── 命惜しさに、一門を裏切って、逃げ落ちんとするところを、この教経が、眼に見て申したことだ。味方誹りとは、わけが違う。ええ、面倒だ、そこなる裏切り者、悪大納言めを、搦から
め捕と れっ」 と、叱咤しった
しながら、彼自身もまた、船づたいに、時忠の前へ迫りかけた。 すると、輿こし
の内から、女院のお声が、 「能登どの、おしずまりなさい」 と、しかった。その声は、彼の足もとを、立た
ち竦すく めた。 帥そつ
ノ局つぼね が、輿こし
の御簾ぎょれん を揚げて、そのそばに寄り添っていた。 「浅ましい味方争いなど、何事ですか。みかどには、昨夜以来、ただならぬおん病気いたずき
ですのに・・・・」 「えっ、御悩ごのう
でいらせられますか。おう・・・・」 教経は、ひざを折って、ひれ伏した。 泣き腫は
れた女院の白いお顔と、みかどのお顔が、教経の沸たぎ
っている血を一ぺんに冷たくした。同時に、自分の行きすぎが悔やまれた。 時忠は、やがて、そばへ来 ── 「是非はおりをみて、ゆるゆる話そう。時忠の言葉の不足も悪かった。だがのう、能登どの、このお病気いたずき
の君や、あまたな女性を連れて、屋島の南から総門道へ、降りられようか。・・・・それこそ、わざわざ、敵の義経に、手捕りにしてくれよと言わぬばかりな危道ではないか。それゆえ、この磯へ降りて、一時の御座船を探させたのだ。悪う解と
くな、能登どの」 「わかりまいた。さまで、さまざまな御苦労があったも存ぜず」 「いや、そう分かってくれれば、時忠もうれしい。いざいざ、主上と女院のおん身を、一刻も早く、御安泰なところへ」 「では、教経に供奉ぐぶ
せよと、仰せあるか」 「海の総大将の任は、内大臣おおい
の殿よりは御辺であろうが。よいところへ、来てくだすった。われら老人や女房たちはみな疲れておる。賢所かしこどころ
の神器じんぎ もこれへ捧持ほうじ
いたした。能登どの、御守護をたのむ。時忠の供奉ぐぶ
はこれまでのこと ──」 |