〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/09 (日)  たんみち (四)

時忠は、一瞬、
「しまった・・・・」
と、言いたげなふるえを、全身のどこかに隠した。
しかし、彼のことである、あわてはしない。
ちらと、妻のそつつぼね へ、眼じらせしてから、むしろ、教経のりつね の兵船を、待ちかまえるかのように、落ち着き払っていた。
それに反して、血気な教経は、はや、薙刀なぎなた の持ち方にも、殺意を示し、船上の部下もみな、矢つがえを見せながら、 つかるばかりな勢いで、ざっと、みよし を寄せて来た。
「やあ、その船待て、水夫かこ楫取輩かんどりばら も、その船を動かさば、ただちに射殺すぞ」
教経は、まず、こい威嚇いかく しながら、あとの兵船が、そこを取り巻くのを待って、
「──たれだっ、そも何やつだ。この教経の命も待たず、みだりに、かかる場所へ兵船を ぎまわし、臆病風おくびょうかぜ に吹かれた怪しげな者どもを、いずこへか、人目を忍んで運び去ろうとするやつは!」
と、腹の底から怒ってわめ いた。
彼と時忠とは、もうたれか分からない距離ではない。すでに、その眼と眼では、するどく、から み合っているのである。
それを、それといわずに、教経がわめいたので、ほんとに、おかしくなったのかも知れない。
時忠は、例の調子で、
「おお、そこへ見えられしは、能登どのか。・・・・能登どのは、船手の大将、わきまえぬではないが、かかるおりだ。いちいち、御辺の許まで、使いを立ててもおれまい。ははは」
と、軽く受け流した。
教経はまだ白面の二十六歳、時忠とは、親子ほど年が違う。
それに、時忠は、故入道清盛の義弟、二位ノ尼の実弟でもある。
何か、気圧けお されないわけにはゆかない。
が、今日ばかりは、時忠の心底を見届けた気がしたのだ。いや、その異心は、出来心でなく、すでに日ごろからのものであることも、今は明白だ。
── よしっ、斬ってしまおう。
一門、生死を共にと誓っている中に、一個の異端者を、異端と知りながら見逃しておくのは、全平家の戦いを、無意味なものにし、犬死させることにほかならない。
── 斬ろう。斬ってしまうに くはない。
たとえ、一門の長者であり、また、叔父に当る人ではあっても、許してはおけぬ。
ことに、今の笑い方は、何事か。 「太々ふてぶて しさよ」 と、教経の若い血は、かっとなった。
「やあ、口は調法、どうにでも言えば言える。したが、人目もないかかる磯辺へ、主上や女院を誘拐かどわか し奉って、そも、いずこへ漕ぎ渡られるつもりであったか。御返答によっては、平家一門に代って、容赦はならん。さ、どこへ漕ぎ逃げる気であったか、真っすぐに申されよ」
「だまれ、門脇殿かどわきどの の小せがれ」
「な、なにを」
「味方そし りはつつし めと、日ごろ、兵にも申す身なればこそ、笑い流しておくものを、何事ぞ、今の雑言ぞうごん は」
「いや、雑言ではあるまい。── 命惜しさに、一門を裏切って、逃げ落ちんとするところを、この教経が、眼に見て申したことだ。味方誹りとは、わけが違う。ええ、面倒だ、そこなる裏切り者、悪大納言めを、から れっ」
と、叱咤しった しながら、彼自身もまた、船づたいに、時忠の前へ迫りかけた。
すると、輿こし の内から、女院のお声が、
「能登どの、おしずまりなさい」
と、しかった。その声は、彼の足もとを、すく めた。
そつつぼね が、輿こし御簾ぎょれん を揚げて、そのそばに寄り添っていた。
「浅ましい味方争いなど、何事ですか。みかどには、昨夜以来、ただならぬおん病気いたずき ですのに・・・・」
「えっ、御悩ごのう でいらせられますか。おう・・・・」
教経は、ひざを折って、ひれ伏した。
泣き れた女院の白いお顔と、みかどのお顔が、教経のたぎ っている血を一ぺんに冷たくした。同時に、自分の行きすぎが悔やまれた。
時忠は、やがて、そばへ来 ──
「是非はおりをみて、ゆるゆる話そう。時忠の言葉の不足も悪かった。だがのう、能登どの、このお病気いたずき の君や、あまたな女性を連れて、屋島の南から総門道へ、降りられようか。・・・・それこそ、わざわざ、敵の義経に、手捕りにしてくれよと言わぬばかりな危道ではないか。それゆえ、この磯へ降りて、一時の御座船を探させたのだ。悪う くな、能登どの」
「わかりまいた。さまで、さまざまな御苦労があったも存ぜず」
「いや、そう分かってくれれば、時忠もうれしい。いざいざ、主上と女院のおん身を、一刻も早く、御安泰なところへ」
「では、教経に供奉ぐぶ せよと、仰せあるか」
「海の総大将の任は、内大臣おおい の殿よりは御辺であろうが。よいところへ、来てくだすった。われら老人や女房たちはみな疲れておる。賢所かしこどころ神器じんぎ もこれへ捧持ほうじ いたした。能登どの、御守護をたのむ。時忠の供奉ぐぶ はこれまでのこと ──」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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