〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/06 (木) あら きん だち (四)

船やぐらには、能登守のとのかみ 教経のりつね の姿が見えた。教経は、大声で、
「やあ、内大臣の殿、主上の御座ぎょざ は、そこでおざるか。供奉ぐぶ の者も、その中におられるのか」
と、海上からたずねた。
そう かれて、宗盛は初めて狼狽ろうばい をあらわした。主上の身辺は万全なものと、ひとりぎめに安心していたらしい。
「いや、ここではないが・・・・御座船へは?」
「何。そこでもないのか。待てど待てど、おん輿こし供奉ぐぶ も一こうくだ って参らぬゆえ、あれなる浅瀬へ御船を寄せたまま、お案じ申しておるなれど」
「はて、どうしたものぞ。煙に巻かれて、山路を迷い、もし逃げ口を失うたら大変だが」
宗盛はかりでなく、教盛やほかの人々も、そう知って、にわかにおもて を騒がせた。
教経は、ひらと、岸へ び上がって来て、
「船手の指揮に当るため、一時、それがしは陸を離れ、主上のお立ち退 きまでは、つい見届け得なかったが、そも、お側の守は、たれとたれぞ」
と、語気をかえてただ しはじめた。
供奉ぐぶ には、侍従の少将有盛どの、左中将清経どのなどがおられるはず」
「たれかが言うと、
「── それから?」
と、教経のりつね は、息せわ しく、なお問いつめた。
ほかの声が、次に答えた。
内蔵頭くらのかみ 信基のぶもと どのも」
「なお、たれぞ?」
侍大将には、御庭守おにわもり の伊賀の平内左衛門家長」
「それだけか」
「いや、昨夜からは、平大納言時忠、時実どのの御父子も、御守護に、付き添うておられたはずだが」
── 時忠の名を、その中に聞くと、何思い当たったか、教経は、眼の底に、不安と怒りをたぎ らせて、
「しゃつ。さては、みかどの玉体を、平大納言父子が、わたくしによう し奉って、あらぬ道をば、わざと、踏み迷わせ奉ったものかも知れぬ。── やあ、一大事ぞおのおの」
と、血相を変え、
「すぐ、手分けして、みかどを、お探し申せ、賢所かしこどころ の神器も、たれが持ったか、案じられる。── もし、味方に異心の者あって、神器を敵に渡しなどしたら、われらのいくさ は、名もない乱賊の所業に終わろう。山じゅう、駆けわかれて、みかどのお行方を、つきとめい。平大納言父子の姿を、見のがすな」
名にしおう平家随一の荒公達あらきんだち だ。
海でも、陸上でも、教経のりつね獅子吼ししく の前に、畏服いふく しない将士はない。
その教経が、どなったのである。が、人びとには、異様な言としか聞こえない。なんで、時忠父子を、裏切り者のようにののしるのか、分からなかった。しかし、彼の血相と、事の重大さにあわてて、宗盛と幕僚以外は、みな、元の山路へ、駆け登って行った。
もちろん、教経自身も、無為むい に、その場にたたず んではいなかった。ふたたび、船へ跳んで返るやいな、櫓手ろしゅ を励まして、どこへともなく、飛魚のように、 がせて行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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