船やぐらには、能登守
教経のりつね の姿が見えた。教経は、大声で、 「やあ、内大臣の殿、主上の御座ぎょざ
は、そこでおざるか。供奉ぐぶ
の者も、その中におられるのか」 と、海上からたずねた。 そう訊き
かれて、宗盛は初めて狼狽ろうばい
をあらわした。主上の身辺は万全なものと、ひとりぎめに安心していたらしい。 「いや、ここではないが・・・・御座船へは?」 「何。そこでもないのか。待てど待てど、おん輿こし
も供奉ぐぶ も一こう降くだ
って参らぬゆえ、あれなる浅瀬へ御船を寄せたまま、お案じ申しておるなれど」 「はて、どうしたものぞ。煙に巻かれて、山路を迷い、もし逃げ口を失うたら大変だが」 宗盛はかりでなく、教盛やほかの人々も、そう知って、にわかに面おもて
を騒がせた。 教経は、ひらと、岸へ跳と
び上がって来て、 「船手の指揮に当るため、一時、それがしは陸を離れ、主上のお立ち退の
きまでは、つい見届け得なかったが、そも、お側の守は、たれとたれぞ」 と、語気をかえて糺ただ
しはじめた。 「供奉ぐぶ
には、侍従の少将有盛どの、左中将清経どのなどがおられるはず」 「たれかが言うと、 「── それから?」 と、教経のりつね
は、息忙せわ しく、なお問いつめた。 ほかの声が、次に答えた。 「内蔵頭くらのかみ
信基のぶもと どのも」 「なお、たれぞ?」 侍大将には、御庭守おにわもり
の伊賀の平内左衛門家長」 「それだけか」 「いや、昨夜からは、平大納言時忠、時実どのの御父子も、御守護に、付き添うておられたはずだが」 ──
時忠の名を、その中に聞くと、何思い当たったか、教経は、眼の底に、不安と怒りを沸たぎ
らせて、 「しゃつ。さては、みかどの玉体を、平大納言父子が、わたくしに擁よう
し奉って、あらぬ道をば、わざと、踏み迷わせ奉ったものかも知れぬ。── やあ、一大事ぞおのおの」 と、血相を変え、 「すぐ、手分けして、みかどを、お探し申せ、賢所かしこどころ
の神器も、たれが持ったか、案じられる。── もし、味方に異心の者あって、神器を敵に渡しなどしたら、われらの戦いくさ
は、名もない乱賊の所業に終わろう。山じゅう、駆けわかれて、みかどのお行方を、つきとめい。平大納言父子の姿を、見のがすな」 名にしおう平家随一の荒公達あらきんだち
だ。 海でも、陸上でも、教経のりつね
の獅子吼ししく の前に、畏服いふく
しない将士はない。 その教経が、どなったのである。が、人びとには、異様な言としか聞こえない。なんで、時忠父子を、裏切り者のようにののしるのか、分からなかった。しかし、彼の血相と、事の重大さにあわてて、宗盛と幕僚以外は、みな、元の山路へ、駆け登って行った。 もちろん、教経自身も、無為むい
に、その場に佇たたず んではいなかった。ふたたび、船へ跳んで返るやいな、櫓手ろしゅ
を励まして、どこへともなく、飛魚のように、漕こ
がせて行った。 |