〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/05 (水) あら きん だち (三)

片腕を、武者の肩にたす けられ、前後を大勢の幕僚に守られながら、内府ないふ 宗盛むねもり は、鈍々どんどん と、かなたの山道を、降りてきた。
体の えたあの宗盛のことなので、こんな場合でも、敏捷びんしょう には欠けている。
わけて、山坂は、ニガ手らしく、傾斜の急な間は、つい足もとのみ気をとられて、ほかに他念もない顔つきだった。
── が、やっと下の平地まで来ると、
「やれ、やれ」
たす けの者の肩を離れ、
「門脇殿 (教盛) 。はや、あらましの味方は、船へ移ったことであろうな。・・・・また、みかどにも」
と、後ろの群を振り向いて言った。
といっても、その答えを、確かめようとするのでもない。すぐ、尼の船の方へ、大股おおまた で歩いていた。
二位ノ尼も、彼を見て、何か呼びかけそうにした。けれど、宗盛の眼は、そこの岸へ寄るとすぐ、たれを見つけたのか、急に、顔色を悪くして、
「やあ、そこにおりしか」
と、船中の女房の群れを、きっと、指さした。
尼公あまぎみ っ。あなたの背後うしろ に身を潜めておる厚顔あつかま しい女めを、これへつまみ出してください。── その女郎めろう は、敵のはかり をうけて来たまわし者にちがいない。憎いやつめ、これへ上がれ」
宗盛に指さされたのは、さくらノ局であった。
さくらノ局は、真っ青になって、尼の後ろに取りすが っていた。顔じゅうを涙によごし、何か、尼へ哀訴しぬいている風だった。
「そこな女朗っ、出おらぬか」
宗盛は、なお言った。
彼が、こんなにも、猛々たけだけ しい声で怒ったのはめずらしい。尼も、初めは、ただ にとられた容子であったが、少し をおいて、
「どうしたものじゃ、内大臣おおい殿との 、ちと、大人気おとなげの ないお怒りではないか。総大将ともあるあなたが、かかる中で」
と、たしなめた。
宗盛は、しかし、おさまらない。かかる総崩れを見たのも、さくらノ局のせいであると、一途いちず に憎しんでいる姿なのだ。
「── いや、仰せではありますが、田辺の湛増たんぞう とその水軍が、近くお味方に加わらんなどと、われらを歓ばせておいて、その油断を敵に突かせたのは、さくらノ局と敵との間に、何かしめ し合わせがあったことに相違ない。── 尼公あまぎみ っ、おかば いくださるな。成敗して、余人の見せしめとせねばならぬ」
「そのお疑いなら、さくらノ局一人でなく、田辺の使いより立ち帰った朱鼻あけはな伴卜ばんぼく も、奥州の吉次も、みな同罪ではありませぬか」
「もとより、彼らの罪も、後日、きっとただ さずにはおきません」
「ならば、さくらノ局の御成敗も、後になされたらよいでしょう。屋島にもいたたまれず、総勢、海へ浮かび出ようとしている今の間際に、何も、あまた御自身、小さい味方さば きなどに、怒り立っておわさなくとも」
「・・・・・・」
「それよりは、内大臣おおい殿との よ、みかどは、どうなさいました。みかどの御守護は」
「・・・・・・」
「みかどの御安泰こそ、大事ですのに」
「いや、主上や女院のお側にも、大勢お付き添い申しています。御心配はありません。・・・・ゆめ、御心配は」
と、言っているところへ、一艘の兵船が、 しぶきをあげて、近づいて来た。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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