〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/05 (水) あら きん だち (二)

尼の顔は、閉じたまぶた を持っていた。
生ける心地もないのであろう。その顔色といったらない。
しかし、気丈な後家尼である。清盛の い後は、清盛の権化とも見えるほど、どこか人も違って来た彼女であった。
船の上で、景経の背から降ろされると、彼女はすぐ、
「四郎兵衛。床几しょうぎ をここへ も。床几を」
と、船屋形のわきに、腰をすえた。そして、さて、静かに心の落ち着きに努めている姿であった。
ふり仰ぐと ──。
いま、尼たちの後にして来た山腹の陣小屋も、頂上の屋島寺千光院の房にも、黒煙くろけむり が立ちのぼっていた。しかも煙は、風圧ふうあつ をうけるごとに、ここの水面低くにまではい がって来て、湾内の船も波間も黄昏たそが れのような暗さにした。
「清宗どの」
「はい」
内大臣おおい殿との (宗盛) は、どうなされたの。このような混雑を、よそに見ながら」
「父上は、まだ峰の御本陣に、踏みとどまっておられるのかrと思いますが」
「四郎兵衛」
「は」
「すべて、海上へ立ち退けとの御命令は、内大臣の殿が出されたのでしょう」
「しかと、さような仰せ出しとうけたまわ りました。そして御老体の尼公を、たれより先に、船へお移し申しあげよとも」
「この尼などを、なぜ、そのように、足手まといにわずら うのじゃ。戦ではないか。尼の身などに後ろ見していることはない。・・・・それよりは、みかどの玉体と、賢所かしこどころ神器じんぎ こそ大事であろうに。みかどは、いかが遊ばしてぞ」
「されば、みかどや女院さまの方へも、べつな侍大将が御守護に せつけ、はや、御座船へおうつ りと存じますが」
「なんとも、らち のない指揮ではあるよの。── みかどの御渡とぎょ も見とどけずに、この尼とて、屋島を離れる心にななれぬ。御座船は、どこに見ゆるか」
「さ? ・・・・。船はあまた、ひしめいておりますなれど、どれが、みかどの御船やら戦艦いくさぶね やら」
清宗も忠房も、尼には孫に当る直系の公達きんだち だった。優雅な面差しや、その、武者振りは、絵の中の人みたいであったが、戦の法とか、用兵の進退などには、未熟な若さというほかはない。
尼につづいて、ほかの女房たちも、危うげな姿態しな 様々さまざま を乱しあって、船の内へまろび入った。── それも見つつ、清宗たちは、やや途方に暮れた姿だった。
すると、飛騨景経が、
「おう、あれへお見えになった一と群れは、内大臣の殿たちではあるまいか」
と、煙る山路を指さした。
忠房や清宗も、急に、力を得たように、
祖母ばば ぎみ 、祖母公。お案じなされますな、内大臣の殿がお見えになりました。みかども、女院も、御一緒に違いありません」
と、後ろの船へ向かって叫んだ。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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