尼の顔は、閉じた瞼
を持っていた。 生ける心地もないのであろう。その顔色といったらない。 しかし、気丈な後家尼である。清盛の亡な
い後は、清盛の権化とも見えるほど、どこか人も違って来た彼女であった。 船の上で、景経の背から降ろされると、彼女はすぐ、 「四郎兵衛。床几しょうぎ
をここへ給た も。床几を」 と、船屋形のわきに、腰をすえた。そして、さて、静かに心の落ち着きに努めている姿であった。 ふり仰ぐと
──。 いま、尼たちの後にして来た山腹の陣小屋も、頂上の屋島寺千光院の房にも、黒煙くろけむり
が立ちのぼっていた。しかも煙は、風圧ふうあつ
をうけるごとに、ここの水面低くにまではい下さ
がって来て、湾内の船も波間も黄昏たそが
れのような暗さにした。 「清宗どの」 「はい」 「内大臣おおい
の殿との (宗盛)
は、どうなされたの。このような混雑を、よそに見ながら」 「父上は、まだ峰の御本陣に、踏みとどまっておられるのかrと思いますが」 「四郎兵衛」 「は」 「すべて、海上へ立ち退けとの御命令は、内大臣の殿が出されたのでしょう」 「しかと、さような仰せ出しと承うけたまわ
りました。そして御老体の尼公を、たれより先に、船へお移し申しあげよとも」 「この尼などを、なぜ、そのように、足手まといに煩わずら
うのじゃ。戦ではないか。尼の身などに後ろ見していることはない。・・・・それよりは、みかどの玉体と、賢所かしこどころ
の神器じんぎ こそ大事であろうに。みかどは、いかが遊ばしてぞ」 「されば、みかどや女院さまの方へも、べつな侍大将が御守護に馳は
せつけ、はや、御座船へお遷うつ
りと存じますが」 「なんとも、埒らち
のない指揮ではあるよの。── みかどの御渡とぎょ
も見とどけずに、この尼とて、屋島を離れる心にななれぬ。御座船は、どこに見ゆるか」 「さ? ・・・・。船はあまた、ひしめいておりますなれど、どれが、みかどの御船やら戦艦いくさぶね
やら」 清宗も忠房も、尼には孫に当る直系の公達きんだち
だった。優雅な面差しや、その、武者振りは、絵の中の人みたいであったが、戦の法とか、用兵の進退などには、未熟な若さというほかはない。 尼につづいて、ほかの女房たちも、危うげな姿態しな
様々さまざま を乱しあって、船の内へまろび入った。──
それも見つつ、清宗たちは、やや途方に暮れた姿だった。 すると、飛騨景経が、 「おう、あれへお見えになった一と群れは、内大臣の殿たちではあるまいか」 と、煙る山路を指さした。 忠房や清宗も、急に、力を得たように、 「祖母ばば
公ぎみ 、祖母公。お案じなされますな、内大臣の殿がお見えになりました。みかども、女院も、御一緒に違いありません」 と、後ろの船へ向かって叫んだ。
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