〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/04 (火) あら きん だち (一)

いったい、たれから出た命令なのか、命令する者も、その出どころは知っていない。
正しくは、総領の内府宗盛むねもり から発しられたはずのものだが、その宗盛の姿さえ、どこにいるのかわからない状態である。
ほか、一門の主将もみなちりぢりばらばららしい。そしてそのたれもが、やたらに命令らしき言を口走るので、混乱のうえになお混乱を加えてしまうばかりだった。
「船へ移れ、総勢、船へ退け」
「ひとまず、海上に浮かび出で、陣を立て直そうとノ、お布令ふれ なるぞ」
「やあ、あわてるな、それは女房船ぞよ。兵どもは、女房船へ飛び乗ってはならぬ」
そこは、屋島ノ御所の真下にあたるいそ だった。
先ごろの大雨のため、がけ なだれができ、船着きの桟板かけいた も道の一部も、土砂の流出に埋もれている。
いや、そんな条件は、今、問題ではない。
屋島の傾斜いちめんが人なだれを呈していた。全陣屋の女房たちから将士のすべてが、ここの水際みずぎわ 目がけて、駆け降りて来、船へ船へと、われがちの騒ぎを見せていたのだった。
その船も、十艘や二十艘の数ではない。屋形造りの大船から、いかだ にひとしい馬立ち船にいたるまで、何百艘ともしれぬ船影が、ここの浦和うらわ から対岸の半島の岸 ── 久通くづう 、丸山、船隠し辺にまで、揺れ動いていた。
北嶺ほくれい の下は絶壁だが、そこから飛び乗った将士を満載して、すでに、湾口の方へ離れて行く船影も多かった。
「おおうい。尼公あまぎみ のお船はどれか」
「二位どののお船を寄せよ」
雑兵ばらは、しばしその辺を遠くへ退けい。二位どのが、おいでになる。二位どののお船をば、岸へ寄せい」
丹後介たんごのすけ 忠房ただふさ と宗盛の子清宗のふたりだった。そこへ来るやいな、しきりに混雑を制していた。
まもなく、二位ノ尼は、武者の背に負われ、近親の僧形そうぎょう やら大勢の女房たちに囲まれて、けわ しい崖道がけみち からこれへ降りて来た。
尼を負うて来た武者は、宗盛の乳人子めのとご飛騨ひだの 四郎兵衛しろうびょうえ 景経かげつね で、
「しっかり、おすが りつきくださいませ。しっかりと、それがしの肩に」
と、背の尼にいいながら、揺れ動く船の桟板かけいた に、足拍子を合わせながら渡って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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