ひざまずいて、時忠は、 「さても、御悩
(病) のおりといい、女院にも昨夜からは寝も遊ばされず、いとどお疲れと察しますが、はや、ここも御安泰ではありませぬ。・・・・お座船がよろしゅうございましょう。時実ときざね
に申しつけ、この下の浦へ、お座船をつなぎおきましたゆえ、そこまで、おん輿こし
にて」 日ごろ、剛愎ごうふく
といわれている平大納言時忠が、いつにもない、うるみ声で、こう、動座をおすすめする。 そして、妻の帥そつ
ノ局つぼね へ、 「すぐ、御用意を」 と、眼でうながした。 その眼は、夫婦だけに分かるものだった。良人おっと
の時忠が、自己の政治的な判断から、みかどを擁して、ひそかに、院へ和睦わぼく
のおはからいを仰ごうとしている腹も、その機会を、いつかつかもうとしていることも、彼の妻だけはよく知っている。 ── が、女院は、起た
とうともなさらなかった。こうして、このままいたいお気持らしい。さっきのように、みかどのお顔にわが頬を打ち重ねて、運命にまかしていたいお心のようだった。 「・・・・いざ」 時忠は、せきたてた。──
俄然がぜん 、味方の敗相はいそう
が濃くなったのを見て、彼は、幼帝を擁して、源軍に投じるのは今だと、重大な決意を肚はら
に持ったのではあるまいか。 「いざ、いざ・・・・。御猶予なく」 と、かさねて、その眼光でうながした。女院の真っ白なお顔を見てである。 「大理どの」 「は」 「・・・・では、この屋島の内へも、はや、源氏の兵が乱れ入って来たのですか」 「されば、ただ今、峰いただきの屋島寺、そこの寺房や千光院が、炎をあげておりまする。また、あちこちの陣小屋なども、火を放たれ、昨日までの御所、内大臣おおい
の殿との の御小屋なども」 「母の二位どのは」 「お船です。はや、いずれも、ここを避けて、海上へ逃げ浮かぶらしく、船隠しの浦、そのほかの浦々の大船小船、みな、屋島の内海を埋めるばかり、こなたの岸に着けられておりまする」 「内大臣おおい
の殿との まで」 「いや、まだどこかに、お陣立ちやも知れませぬが、ここより諸所の動きを見れば、あわれお味方中は、ほところの火に、まったく度ど
を失い、ただもう右往左往の影としか見えませぬ」 「・・・・でも、わが身はここを退きとうない。みかどの重いおいだずきを揺り参らせ、なんで、波の上へ漂い出られようぞ」 「ご無理もない仰せです。が、時忠が、この背に負い参らせて山路を駆け下りて参りましょう。かかる陣小屋よりも、船館ふなやかた
のお内こそ、かえって」 「いいえ、御動座はなりませぬ」 「な、なぜですか。・・・・時忠が、おすすめ申さなくても、必ず、一門のたれかれが、これへお迎えに参りましょうず」 「・・・・・・」 「・・・・なにとぞ」 と、時忠は、その重そうな鎧姿を、女院のすぐ前まで、ずり寄せて、がっしと、半身を折ってひれ伏した。 「何とぞ、みかどの玉体はこの時忠に、お託し給わりませ。女院の深いお胸のうちを知る者、時忠を措お
いて、ほかにあらじと信じておりますれば」 「・・・・・・」 「よも女院には、お忘れではございますまい。時忠もまた、まざと、瞼まぶた
に残しておりまする。── と申すのは、一ノ谷の合戦の直前、お座船の内にて、二位ノ尼君、内大臣おおい
の殿との も、みな一つの座にて、密々の御軍議がありました。・・・・士気を振わせんがためには、みかどの一ノ谷行幸みゆき
を仰ぐほかないと、その場で衆議も一となって」 「・・・・・・・」 「たれ一人異議はない。尼の君すら御同意であった。けれど、ただおひとり、おん母のひたぶるな涙のお拒こば
みをもって、その儀を、くつがえさせた御方は・・・・られあろう、女院さま、あなたさまではございませんでしたか。にわかな病気心地いたずきごこち
と、仮病を装よそ われ給い、しかと、みかどをお側へ抱き寄せられ、なんとおすすめ申しても、みかどをお座船からお離しにならなかったものでした。・・・・ああ、どれほど、戦をお憎しみかと、お胸を察して、時忠もあのころから、深く思いを潜めてまいったのです。・・・・余人ならぬその時忠が負い参らせて、ここの御動座を仰ぐのです。おまかせ給わりませ。時忠夫婦が命にかけて、かならず悪しゅうは計らいませぬ」
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