〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/02 (日) へい だい ごん さく (四)

ひざまずいて、時忠は、
「さても、御悩 ごのう (病) のおりといい、女院にも昨夜からは寝も遊ばされず、いとどお疲れと察しますが、はや、ここも御安泰ではありませぬ。・・・・お座船がよろしゅうございましょう。時実ときざね に申しつけ、この下の浦へ、お座船をつなぎおきましたゆえ、そこまで、おん輿こし にて」
日ごろ、剛愎ごうふく といわれている平大納言時忠が、いつにもない、うるみ声で、こう、動座をおすすめする。
そして、妻のそつつぼね へ、
「すぐ、御用意を」
と、眼でうながした。
その眼は、夫婦だけに分かるものだった。良人おっと の時忠が、自己の政治的な判断から、みかどを擁して、ひそかに、院へ和睦わぼく のおはからいを仰ごうとしている腹も、その機会を、いつかつかもうとしていることも、彼の妻だけはよく知っている。
── が、女院は、 とうともなさらなかった。こうして、このままいたいお気持らしい。さっきのように、みかどのお顔にわが頬を打ち重ねて、運命にまかしていたいお心のようだった。
「・・・・いざ」
時忠は、せきたてた。── 俄然がぜん 、味方の敗相はいそう が濃くなったのを見て、彼は、幼帝を擁して、源軍に投じるのは今だと、重大な決意をはら に持ったのではあるまいか。
「いざ、いざ・・・・。御猶予なく」
と、かさねて、その眼光でうながした。女院の真っ白なお顔を見てである。
「大理どの」
「は」
「・・・・では、この屋島の内へも、はや、源氏の兵が乱れ入って来たのですか」
「されば、ただ今、峰いただきの屋島寺、そこの寺房や千光院が、炎をあげておりまする。また、あちこちの陣小屋なども、火を放たれ、昨日までの御所、内大臣おおい殿との の御小屋なども」
「母の二位どのは」
「お船です。はや、いずれも、ここを避けて、海上へ逃げ浮かぶらしく、船隠しの浦、そのほかの浦々の大船小船、みな、屋島の内海を埋めるばかり、こなたの岸に着けられておりまする」
内大臣おおい殿との まで」
「いや、まだどこかに、お陣立ちやも知れませぬが、ここより諸所の動きを見れば、あわれお味方中は、ほところの火に、まったく を失い、ただもう右往左往の影としか見えませぬ」
「・・・・でも、わが身はここを退きとうない。みかどの重いおいだずきを揺り参らせ、なんで、波の上へ漂い出られようぞ」
「ご無理もない仰せです。が、時忠が、この背に負い参らせて山路を駆け下りて参りましょう。かかる陣小屋よりも、船館ふなやかた のお内こそ、かえって」
「いいえ、御動座はなりませぬ」
「な、なぜですか。・・・・時忠が、おすすめ申さなくても、必ず、一門のたれかれが、これへお迎えに参りましょうず」
「・・・・・・」
「・・・・なにとぞ」
と、時忠は、その重そうな鎧姿を、女院のすぐ前まで、ずり寄せて、がっしと、半身を折ってひれ伏した。
「何とぞ、みかどの玉体はこの時忠に、お託し給わりませ。女院の深いお胸のうちを知る者、時忠を いて、ほかにあらじと信じておりますれば」
「・・・・・・」
「よも女院には、お忘れではございますまい。時忠もまた、まざと、まぶた に残しておりまする。── と申すのは、一ノ谷の合戦の直前、お座船の内にて、二位ノ尼君、内大臣おおい殿との も、みな一つの座にて、密々の御軍議がありました。・・・・士気を振わせんがためには、みかどの一ノ谷行幸みゆき を仰ぐほかないと、その場で衆議も一となって」
「・・・・・・・」
「たれ一人異議はない。尼の君すら御同意であった。けれど、ただおひとり、おん母のひたぶるな涙のおこば みをもって、その儀を、くつがえさせた御方は・・・・られあろう、女院さま、あなたさまではございませんでしたか。にわかな病気心地いたずきごこち と、仮病をよそ われ給い、しかと、みかどをお側へ抱き寄せられ、なんとおすすめ申しても、みかどをお座船からお離しにならなかったものでした。・・・・ああ、どれほど、戦をお憎しみかと、お胸を察して、時忠もあのころから、深く思いを潜めてまいったのです。・・・・余人ならぬその時忠が負い参らせて、ここの御動座を仰ぐのです。おまかせ給わりませ。時忠夫婦が命にかけて、かならず悪しゅうは計らいませぬ」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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