〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/02 (日) へい だい ごん さく (三)

昨夜からの、みかどのおねつ は、一こう下がる容子もみえない。
供御くご (お食事) も、けさは、ほんの少ししか、おとりにならなかった。
「のう、つぼね ・・・・おりもおり、どうしたものであろう」
建礼門院は、お枕のそばへ、付ききりであった。
当然、ここの陣屋へも、疾風はやて の如く、総門の合戦やら、上総忠光かずさのただみつ の敗退など、安からぬ悲報が、頻々ひんぴん と伝わって来るが、おん母にとっては、いくさ も、うわの空でしかない。
── 我が子の、苦しげな一呼吸一呼吸のみに、母の祈りと、母の戦いはあるのであった。
「ここには、よい薬師くすし も医僧もなし、ぜひのう先ほど、専親僧都せんしんそうず を、お迎えに出しましたが、僧都そうず もどこにおられますことやら、まだ使いさえ戻ってみえませぬ。・・・・ああ、何もかもがこのいくさ の中。まこと、おりもおりでございますのう」
そつつぼね も、慰めようのない容子ようす だった。おん枕べに、こうして、女院とともに看護みとり している刻々さえも、生きているそらもなかった。
だがもし、みかどが、自分の産んだ御子みこ であったら、自分もやはり女院とひとしい、ゆるがぬ母の座に落ち着き切っていられるのかも分からない。そう、思いながらも、彼女は、女院の母の姿に、何か気高けだか いまでの悲しい美しさを見るのであった。
「女院さま、しばらく、お待ちくださいませぬか」
「局は、どこへ行く気ですか」
「いっそ、良人おっと の時忠どのへ、相談してまいりまする。何か、よい思案があるかもしれませぬ」
「時忠どのは、自身、ここの御守護に立っているのでしょう」
「はい、ここの経盛どのは、御総領 (宗盛) の本陣所へ、すぐお駆けつけになりましたゆえ、良人は、あの人びととともに、ここは動けぬ、みかどのお守りこそ大事 ── と申しておりました」
「な。それは、やめて も。時忠どのや僧都そうず が来て給うても、にわかに、お病気いたずき のようなるはずはない。それよりは、・・・・ずっと以前、父の入道殿 (清盛) が秘薬ぞと仰せられて、この身へ賜うた筑紫つくし 薬師くすし唐薬とうやく 。あれなと、さしあげてみてはと思うが」
「よいところへお気づき遊ばしました。では、お薬湯を る支度を申し付けましょう。 ぞ、お次におりませぬか」
そつつぼね の声を聞いて、簾越すご しの廊の隅から、典侍のひとりが、その外へ、影を見せた。
白絹の袿衣うちぎ の袴の人影が、静かに立って、妻戸の口を開けかけたようであった。
まさに開けた途端であった。絹を裂くような叫びで、
「あっ。── や、屋島の内も」
と、走り戻って来、
「た、たいへんですっ。・・・・合戦は、ふもと だけではありません。すぐこの上の峰も、焼けておりまする。木戸の時忠どのや、武者たちも、血相変えて、かけまわっている様子です。敵は、もうそこまで、来たのかも知れませぬ」
と、悲鳴そのままを内へ告げた。典侍の影も、御簾みす の影も一しょにふるえた。
「ま。・・・・甲高かんだか な」
女院は、おんまゆ をひそめて、
「しずかになさい」
と、いつになく叱った。
うつらうつらしていたみかどが、その声に、びくと、お体を動かし、かわ いたおくち で、何かむずかったからであった。
女院は、そのお唇へ、手ずから水をおすすめしたが、みかどは、お首を振ったのみだった。火のようなお顔である。昏々こんこん としていらっしゃる。母の憂いを、じっと、そのおん息づかいに らしているうちに、女院は、とつぜんその白い顔を、みかどの頬へ打ち重ねて、声もなく泣いてしまわれた。 「・・・・ご一しょに、死にましょう、母がおん供をいたしまする、戦のない国へ。・・・・戦のない国へ」 そういっているようなお姿にそれは見えた。
「女院さま」
そつつぼね は、 り寄って、
「女院さま。どう遊ばしました。あれ、あの武者声・・・・いいえ、この山すらも、鳴っているようでございます。はや、ただ事ではありません。さ、さ、お身支度はおよろしゅうございますか」
彼女さえ、歯の根も合わない声なのである。
そこへ、時忠が入って来た。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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