昨夜からの、みかどのお熱
は、一こう下がる容子もみえない。 供御くご
(お食事) も、けさは、ほんの少ししか、おとりにならなかった。 「のう、局つぼね
・・・・おりもおり、どうしたものであろう」 建礼門院は、お枕のそばへ、付ききりであった。 当然、ここの陣屋へも、疾風はやて
の如く、総門の合戦やら、上総忠光かずさのただみつ
の敗退など、安からぬ悲報が、頻々ひんぴん
と伝わって来るが、おん母にとっては、戦いくさ
も、うわの空でしかない。 ── 我が子の、苦しげな一呼吸一呼吸のみに、母の祈りと、母の戦いはあるのであった。 「ここには、よい薬師くすし
も医僧もなし、ぜひのう先ほど、専親僧都せんしんそうず
を、お迎えに出しましたが、僧都そうず
もどこにおられますことやら、まだ使いさえ戻ってみえませぬ。・・・・ああ、何もかもがこの戦いくさ
の中。まこと、おりもおりでございますのう」 帥そつ
ノ局つぼね も、慰めようのない容子ようす
だった。おん枕べに、こうして、女院とともに看護みとり
している刻々さえも、生きているそらもなかった。 だがもし、みかどが、自分の産んだ御子みこ
であったら、自分もやはり女院とひとしい、ゆるがぬ母の座に落ち着き切っていられるのかも分からない。そう、思いながらも、彼女は、女院の母の姿に、何か気高けだか
いまでの悲しい美しさを見るのであった。 「女院さま、しばらく、お待ちくださいませぬか」 「局は、どこへ行く気ですか」 「いっそ、良人おっと
の時忠どのへ、相談してまいりまする。何か、よい思案があるかもしれませぬ」 「時忠どのは、自身、ここの御守護に立っているのでしょう」 「はい、ここの経盛どのは、御総領
(宗盛) の本陣所へ、すぐお駆けつけになりましたゆえ、良人は、あの人びととともに、ここは動けぬ、みかどのお守りこそ大事
── と申しておりました」 「な。それは、やめて給た
も。時忠どのや僧都そうず が来て給うても、にわかに、お病気いたずき
のようなるはずはない。それよりは、・・・・ずっと以前、父の入道殿 (清盛) が秘薬ぞと仰せられて、この身へ賜うた筑紫つくし
薬師くすし の唐薬とうやく
。あれなと、さしあげてみてはと思うが」 「よいところへお気づき遊ばしました。では、お薬湯を煮に
る支度を申し付けましょう。誰た
ぞ、お次におりませぬか」 帥そつ
ノ局つぼね の声を聞いて、簾越すご
しの廊の隅から、典侍のひとりが、その外へ、影を見せた。 白絹の袿衣うちぎ
に緋ひ の袴の人影が、静かに立って、妻戸の口を開けかけたようであった。 まさに開けた途端であった。絹を裂くような叫びで、 「あっ。──
や、屋島の内も」 と、走り戻って来、 「た、たいへんですっ。・・・・合戦は、麓ふもと
だけではありません。すぐこの上の峰も、焼けておりまする。木戸の時忠どのや、武者たちも、血相変えて、かけまわっている様子です。敵は、もうそこまで、来たのかも知れませぬ」 と、悲鳴そのままを内へ告げた。典侍の影も、御簾みす
の影も一しょにふるえた。 「ま。・・・・甲高かんだか
な」 女院は、おん黛まゆ
をひそめて、 「しずかになさい」 と、いつになく叱った。 うつらうつらしていたみかどが、その声に、びくと、お体を動かし、乾かわ
いたお唇くち で、何かむずかったからであった。 女院は、そのお唇へ、手ずから水をおすすめしたが、みかどは、お首を振ったのみだった。火のようなお顔である。昏々こんこん
としていらっしゃる。母の憂いを、じっと、そのおん息づかいに凝こ
らしているうちに、女院は、とつぜんその白い顔を、みかどの頬へ打ち重ねて、声もなく泣いてしまわれた。 「・・・・ご一しょに、死にましょう、母がおん供をいたしまする、戦のない国へ。・・・・戦のない国へ」
そういっているようなお姿にそれは見えた。 「女院さま」 帥そつ
ノ局つぼね は、摩す
り寄って、 「女院さま。どう遊ばしました。あれ、あの武者声・・・・いいえ、この山すらも、鳴っているようでございます。はや、ただ事ではありません。さ、さ、お身支度はおよろしゅうございますか」 彼女さえ、歯の根も合わない声なのである。 そこへ、時忠が入って来た。 |