〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/02 (日) へい だい ごん さく (二)

おなじ例は、義経が、鵯越えを望んで、丹波路たんばじ迂回うかい したあの時にも行く先々であった。いずれも、 「むかしは、源氏に由縁ゆかり のありたる者」 とか、「平家には仕えじと思い、野に隠れて、今日の来るのを待っておりました」 などと例外ない口上である。
勝つと見れば、招かずとも人は寄って来る。うるさいといえばうるさいが、しかし、敵地に入って、その旗の下に、これらの者が集まって来ないようでは勝目はない。
「おそらく、合戦は夜まで続こう、この間に、腰兵糧こしひょうろう など解いておこうよ。── 殿輩とのばら 、腹をととのえおけや」
義経は、命を下した。
といっても、義経はじめ、一つの陣形を取って、馬を立て並べ、馬上のままかて を解いて、頬張るだけのことにすぎない。
眼は、なお余燼よじん の中の古高松ふるたかまつ から、屋島の山、そこの入江、五剣山などを、おのおの、油断なくながめあっているのだった。
そのうちに、たれからともなく、
「はて、まだここに、姿を見せぬ者がある」
「そうだ、後藤兵衛ごとうひょうえ の父子、伊豆有綱、那須大八など、七、八名がまだ足らぬ」
「さては、どこかで苦戦に落ち、敵に囲まれているのではなかろうか」
と、口々に憂い出していた。
友達思いな弁慶や佐藤忠信たちは、すぐ義経のそばへ来て、
「── 思うに、夜明け方、古高松の煙りの下にて、別れ別れとなり、そのまま敵中をさまようているのかも知れませぬ。見て参りますゆえ、暫時ざんじ 、この場を離れまする」
と、願い出た。
義経は、微笑しながら、
「いや、その義なれば、案じるに及ばぬ」
と、はっきり言った。
「たしかに、ここに見えぬその者たちは、敵の深くへくぐ り入ったに相違ないが、やがて見よ、ゆゆしき所在を、味方の へ告げるであろうよ。── 後藤の父子、有綱たちも、はや今ごろは、屋島のいただきへ、登りついている時分」
「えっ、屋島の内へ」
「うむ」
義経はニコとうなずいた。そして、まだ誰にも語っていないらしいそのことを、田代冠者信綱、よど江内忠俊こうないただとし など、辺りにいたほかの人びとにも、初めて、こう打ち明けた。
── 古高松から一せいに、同勢、総門へさして来る途中、義経は、屋島のすそをめぐ干潟ひがた の潮を見つつ駆けた。
すると、赤牛崎と呼ぶ所がある。── 屋島の真南にあたり、こなたの陸地と、彼岸ひがん の出鼻にくびられて、そこは最も水面距離の幅がせまい。
しかも、さく鹿砦ろくさい (逆茂木さかもぎ ) などの防禦はここもほかと同じだったが、兵の守りはありそうもない。義経は直感的に、駒をとめた。そして、そばに居合わせた後藤兵衛ごとうひょうえ 実基さねもと 、その子基清、伊豆有綱などの七、八名に、(── ここを渡って、屋島へよじのぼり、平家の陣屋陣屋を焼き払え、おそ れ多けれど、内裏だいり とて、仮借かしゃく すな。御所、女房小屋、ことごとく火になし奉れ) と命じたのであった。
面々は、即座にみなよろい を脱ぎ捨て、それを馬のくら に残して、干潟ひがた の潮へ、首までつか った。
潮が れば、いわゆる干潟だが、さし潮となれば、自然の外濠そとぼり と化すのである。下は泥土のようで、足の届かない所もあり、ともすればまた、足をとられる。ずいぶん難儀そうに思われたが、しかし彼らのことだ、やり遂げてくれるだとう。義経は、駒を止めてはいられない。そのまま、すぐ総門の方へ馬を飛ばした。
そう、仔細しさい を聞いて、
「さても、御機略かな、そこまでには、たれの思慮も及ばぬこと」
と、人びとはみな下を巻いた。
そして、にわかに、
「やがて、屋島の内にも煙や立たん。平家やあわてふためかん」
と、腰兵糧の物を、頬張りながら、眸を らして、かなたの浦や山腹や頂を、見まもっていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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