おなじ例は、義経が、鵯越えを望んで、丹波路
を迂回うかい したあの時にも行く先々であった。いずれも、
「むかしは、源氏に由縁ゆかり
のありたる者」 とか、「平家には仕えじと思い、野に隠れて、今日の来るのを待っておりました」 などと例外ない口上である。 勝つと見れば、招かずとも人は寄って来る。うるさいといえばうるさいが、しかし、敵地に入って、その旗の下に、これらの者が集まって来ないようでは勝目はない。 「おそらく、合戦は夜まで続こう、この間に、腰兵糧こしひょうろう
など解いておこうよ。── 殿輩とのばら
、腹をととのえおけや」 義経は、命を下した。 といっても、義経はじめ、一つの陣形を取って、馬を立て並べ、馬上のまま糧かて
を解いて、頬張るだけのことにすぎない。 眼は、なお余燼よじん
の中の古高松ふるたかまつ から、屋島の山、そこの入江、五剣山などを、おのおの、油断なくながめあっているのだった。 そのうちに、たれからともなく、 「はて、まだここに、姿を見せぬ者がある」 「そうだ、後藤兵衛ごとうひょうえ
の父子、伊豆有綱、那須大八など、七、八名がまだ足らぬ」 「さては、どこかで苦戦に落ち、敵に囲まれているのではなかろうか」 と、口々に憂い出していた。 友達思いな弁慶や佐藤忠信たちは、すぐ義経のそばへ来て、 「──
思うに、夜明け方、古高松の煙りの下にて、別れ別れとなり、そのまま敵中をさまようているのかも知れませぬ。見て参りますゆえ、暫時ざんじ
、この場を離れまする」 と、願い出た。 義経は、微笑しながら、 「いや、その義なれば、案じるに及ばぬ」 と、はっきり言った。 「たしかに、ここに見えぬその者たちは、敵の深くへ潜くぐ
り入ったに相違ないが、やがて見よ、ゆゆしき所在を、味方の眸め
へ告げるであろうよ。── 後藤の父子、有綱たちも、はや今ごろは、屋島のいただきへ、登りついている時分」 「えっ、屋島の内へ」 「うむ」 義経はニコとうなずいた。そして、まだ誰にも語っていないらしいそのことを、田代冠者信綱、淀よど
ノ江内忠俊こうないただとし など、辺りにいたほかの人びとにも、初めて、こう打ち明けた。 ──
古高松から一せいに、同勢、総門へさして来る途中、義経は、屋島のすそを繞めぐ
る干潟ひがた の潮を見つつ駆けた。 すると、赤牛崎と呼ぶ所がある。──
屋島の真南にあたり、こなたの陸地と、彼岸ひがん
の出鼻にくびられて、そこは最も水面距離の幅がせまい。 しかも、柵さく
や鹿砦ろくさい (逆茂木さかもぎ
) などの防禦はここもほかと同じだったが、兵の守りはありそうもない。義経は直感的に、駒をとめた。そして、そばに居合わせた後藤兵衛ごとうひょうえ
実基さねもと 、その子基清、伊豆有綱などの七、八名に、(──
ここを渡って、屋島へよじのぼり、平家の陣屋陣屋を焼き払え、畏おそ
れ多けれど、内裏だいり とて、仮借かしゃく
すな。御所、女房小屋、ことごとく火になし奉れ) と命じたのであった。 面々は、即座にみな鎧よろい
を脱ぎ捨て、それを馬の鞍くら
に残して、干潟ひがた の潮へ、首まで浸つか
った。 潮が干ひ れば、いわゆる干潟だが、さし潮となれば、自然の外濠そとぼり
と化すのである。下は泥土のようで、足の届かない所もあり、ともすればまた、足をとられる。ずいぶん難儀そうに思われたが、しかし彼らのことだ、やり遂げてくれるだとう。義経は、駒を止めてはいられない。そのまま、すぐ総門の方へ馬を飛ばした。 そう、仔細しさい
を聞いて、 「さても、御機略かな、そこまでには、たれの思慮も及ばぬこと」 と、人びとはみな下を巻いた。 そして、にわかに、 「やがて、屋島の内にも煙や立たん。平家やあわてふためかん」 と、腰兵糧の物を、頬張りながら、眸を凝こ
らして、かなたの浦や山腹や頂を、見まもっていた。 |