〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/02 (日) へい だい ごん さく (一)

「おお、敵は総門へ引っ返して行くぞ」
「それっ、逆追 さかお いに移れ」
伊勢三郎たちの、例の野馬隊は、志度 しどはず れで、向きを変え出した。
── 後ろから追撃をつづけていた平軍が、にわかに、元の道へ引っ返し始めたからである。
義経の命を受けて、北海岸の津田、鴨部、志度と急いで来、今暁から、さんざん、屋島の眼をあざむいていたこの一小隊は、
「時こそ」
とばかり、そのまぼろし的な任務をかなぐり捨てて、相手の転進を見たとたんから、急に、平軍の後を追い慕っていたのだった。
牟礼むれ の総門に近づくと、もう、前面にいた義経と、上総忠光かずさのただみつ や越中次郎兵衛らの軍との間には、激烈な戦いが起こっている。── 当然、彼ら野場隊は、どっと、その敵の背後から突っ込んだ。
ここの平軍だけでも、数は、はるかに源氏より多い。が、彼らは挟撃きょうげき の中に ちてしまったのみか、歩兵が大部分なので、東国武者の馬群の前には、思いのままな好餌こうじ だった。蹴散けち らされ、蹴散らされ、みるまに、惨たる犠牲を積み重ねてしまった。
「ぜひもない。残念だが、このうえは」
と、上総忠光は、大息をあえぎながら、
「── 盛嗣もりつぐ どの、ひとまずここは退こう。船隠しにある味方の陣へ」
と、越中次郎兵衛へ呼びかけた。
干潟ひがた の橋は、占領されていたし、総門もまた、すでに焼き払われている。
逃げ道は八栗やぐり 半島に求めるしかなかったのだ。
── やがて平軍は、牟礼むれなぎさ を北へ潰走かいそう し出した。むなしく、屋島御所を、左の対岸に見ながら、五剣山ごけんざん の下を縫って、久通くづう 、船隠し方面へ、われがちに、なだれて行った。
義経は、部下のはや りをおそ れて、
「追うな、深追い無用」
と、しきりに制していた。
そして、野馬隊の一群をさしまねき、
「手柄であったぞ、殿輩とのばら
と、彼らの労をたた え、
「首尾よく出会うたな、伊勢とも、深栖ふかす とも」
相互の無事と、策の成功を、ひとまず、ともによろこ びあった。
よろこびは、そればかりに尽きない。
かえりみると、この時、百七、八十騎に過ぎなかった義経の麾下きか は、三百余騎にふえていた。── というのは、今暁以来、諸所の山野に隠れていた反平家の郷武者さとむしゃ が、源氏の旗を見、火の手を望み、
「ぜひ、ぜひ、御陣の端にでも」
と、続々、さん じて来たからだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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