矢はなかなか当たらないものである。 満
を引き、息をため、丹田たんでん
の気と弦つる をひとつに切って放つには、よほどな手練と沈着がいる。 まして、恐怖の兵が、楯たて
や柵さく の隙間から、浮き腰で射る矢などは、おおむねヘロヘロ矢にすぎない。 当るのも、まぐれ当り。せいぜいが、相手の草摺さくずり
かしころに刺さって、敵の勇姿を飾ってやるだけのものだった。 豪胆ごうたん
に見える歴戦の士の行動も、じつは、矢はさして恐こわ
くないことを知悉ちしつ しているのである。わけて東国武者は、矢前やまえ
の身づくろいや、矢道の突進に馴れている。── 彼らは、どっと柵へ迫って、 「そこ打ち破れ」 と、総門の木戸へむらがった。 馬混みの中からすざまじい物音がわいた。たれかがそれへ岩石を投げたらしい。土けむりが立ち、巨材の裂ける響きがした。 無造作なほど、柵内の守兵は、八方へ蹴け
散らされた。騎馬と徒歩かち とでは、みじめな違い方である。刃が立たない。 「ここも、火とせよ。十郎」 田代冠者たしろのかじゃ
信綱のぶつな が駆けつつ言う。 「心得て候う」 と、金子十郎家忠、親則ちかのり
の兄弟。 江田源三、熊井太郎ど。 用意の油松明あぶらたいまつ
を、あちこち、眼にはいるかぎりの建物へ撒ま
いて走りまわった。 この辺りは、浜の汀なぎさ
である。屋島へ退ひ こうとする兵は、橋一つに混みなだれ、また、濠ほり
とも川とも見える干潟へ飛び込み、首だけを見せて、ざぶざぶと、対岸へ逃げ渡って行った。 干潟ひがた
には、まだ潮しお がある。 この日の干潮時は、巳み
ノ刻こく ごろ、暦数家の正確な陰暦計算によれば、いまの午前九時四十分であったという。 ──
とすると、義経たちが総門へ殺到さっとう
したのは、辰たつ ノ刻こく
(八時) 前後とみて大差あるまい。 そして、ここを序戦に、ほっと、ひと息つく暇ひま
があったかどうか。 おそらく、そのころには、志度方面へ、あらぬ敵を深追いしていた上総かずさの
忠光ただみつ や越中次郎兵衛らの平軍も、 「はて。──
いぶかしいぞ」 と、その謀はか
られた道に戸惑いを踏んでいたに違いない。 彼らが、暗いうちから、敵の主力とのみ思って、長追いをつづけていたのは、例の、義経が子飼の者 ── 草の実党の三十余騎を、伊勢三郎と深栖ふかすの
陵助りょうすけ がひきつれ、巧みに、虚実をえがいていたものだった。 「余りといえば、逃げ足の早さ、数も少ない敵なのに、松明の燃え殻ばかりは、何百となく、道々に捨ててある。木の枝にさえ、くくりつけた様子がみえる。もしや敵の火計ではあるまいか」 こう気づいて、忠光がまず怪しみ、越中次郎兵衛もまた、 「あら迂闊うかつ
さよ。前の敵が偽計とせば、後ろこそ、気がかりなれ」 と、にわかに、あとへ引っ返し始めた。 そして、彼らはまもなく、古高松から牟礼一帯の黒煙りを、その眼で見たに違いない。 「──
南無三、まことの敵はかなたに ──」 と、大あわてに、元の総門へ、駆け戻って来たのである。 |