古高松というのは後の地名である。
“和名抄 ” にみえる高松郷ごう
が古称こしょう であろう。現在の高松市の東一里半、屋島の南の浦に接してい、潟本村かたもとむら
、古高松など、すべて当時は、屋島やしま
内裏だいり を繞めぐ
る麓町ふもとまち といった形であった。特に、女房御所やら一門の公達きんだち
以下、数千の都人みやこびと が屋島に定住しはじめてからは、辻々の条里も備わり、戸々の町屋も思わぬ繁昌に賑にぎ
わっていたことだろうと思われる。 だが、そういう聚落じゅらく
── 人の集団の運命も、何が倖せで、何が不幸かわからない。 ── そこの住民たちは、今朝、眼ざめたとたんに、黒煙りに咽む
せ返った。焔ほのお の海の中に、わが家があり、妻子があり、自分もあった。 「死、死ぬぞっ。はよう逃げよ、逃げよ」 「──
た、助けてえっ」 「吾子あこ
を、吾子を」 まだ、朝の戸も開いていない家々の内からであった。嬰児えいじ
のさけびまで交えた阿鼻叫喚あびきょうかん
をつつんで、火が呼び起こす火の熱風が音をたてて翔か
けてゆく。火ひ 旋風つむじ
に乗った古家の板戸が車みたいにカラカラ往来をまわされ、まろび出た女子どもは、いくたびも、武者の馬蹄ばてい
にかけられそうになった。それは忽然こつぜん
と ── まったく忽然と、ここの住民が見た東国武者の影だった。 いうまでもなく、長尾道を越えて、予定の未明に雪崩なだ
れ入った義経の本隊なのである。ただちに五騎十騎と、幾組にも別れ、全町へ火を放ったのみでなく、べつに牟礼むれ
へ入った組も、牟礼の部落を焼きたて、路傍の建物でも、牧の小屋でも、仮借かしゃく
なく火をつけた。 敵へ迫るのに、敵でもない、無辜むこ
の民家をまず焼き払う。手段を選ばない戦争のすがたは、古今の違いもなかったのだ。軍の常套手段じょうとうしゅだん
として、敵味方とも用い慣れている。特に、屋島攻めのさいは、源氏はその弱小な人数と、出没の影を、平家方にさとられまいために、必要以上にまで、火を放ったものらしい。煙幕を利用したのである。 「まず牟礼むれ
の口を奪と れ」 「牟礼の総門を破れ」 「総門へ」 「総門へ」 それは合言葉のように、奔馬の上の甲冑かっちゅう
から甲冑の影へ呼び交わされていた。煙りの中に十騎、七、八騎と分散していた少数の群は、むらむらと一方面に駆け集まって来、分厚い鉄騎の陣を見せた。縦隊でもなし、横隊でもない、ただすさまじい爆地の響きをもった真っ黒なものが、雷気らいき
を孕はら んだまま突進して行くとしか見えない。 屋島の下は、ちょうど、裾すそ
まわしを見せた衣裳のように、海のさし潮で縫われている。それは人工の濠ほり
に似ているが、自然の地形であった。こなたの陸地とは完全に縁が切れている。 が、総門道だけには、橋のあった跡がある。 おそらく、それもおとといの高潮で流失したに違いあるまい。残された橋杭はしぐい
に、にわか修理を加え、粗板あらいた
を敷きならべて、急場の通路としていた。 「やっ、来るわっ」 「東国武者だ」 「敵ぞっ、敵の騎馬勢ぞ」 総門の平軍は、その辺り一帯に、吹きためられた木の葉のような戦慄せんりつ
をみせ、みな柵さく のうちへ隠れ込んでしまった。──
敵の騎兵団に対し、彼らのほとんどは、歩兵だったからである。 が、馬も皆無だったわけではない。総門には常備兵力も千をこえているはずだった。 ──
が、未明の第一に、志度方面のおびただしい松明たいまつ
を見、それを敵の主力と信じたため、上総かずさの
忠光ただみつ 、越中次郎兵衛など、ここのあらましは、つり込まれて深追いしてゆき、まんまと、あとの空巣へ、義経たちを招いてしまったわけである。 その義経は、ここへ来ると、近々と、屋島を眼にして、馬上から、 「──
一院のおん使い、検非違使五位けびいしのごい
ノ尉じょう 、源九郎みなもとのくろう
義経よしつね 」 と、高らかに名乗った。 その日の彼の装よそお
いは。 むらさき裾濃すそご
の鎧よろい 、赤地錦あかじにしき
のひたたれ、乗ったる馬は大夫黒たゆうぐろ
と、古書どれも一致している。彼ばかりでなく、彼の部下は皆、おのおの、晴れの装束しょうぞく
をこらし、それはまた、死装束とも期して心に着込んでいたに違いない。 |