〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/28 (金) きょ そう じつ そう (四)

あらゆる事態は、そしてその急変貌きゅうへんぼう も、もし、いつものような春のあした の寝心地である朝ならば、夢見る間もない、ほんの一瞬いっとき の推移でしかなかったのである。
「すわ、まことの敵は、べつな方に」
と、立ち騒いだのも、今となって、なんと遅いことだったろうか。
みるまに、屋島全体の影は、墨のような早い気流の中にぼやけている。
黒煙りはいちめんだった。もうもうとして、どこのものやら定かでない。
しかし、その火元が屋島の西南から南側にわたっていることは確かだ。
それも、渦に渦を重ねて、もくもくと噴き上げてくる。おりからの風に、その幾すじもも煙の柱は、空の途中で折り曲げられる。そして噴騰ふんとう の頭をおさ えられた煙の傘は大きく横にはい拡がって、屋島の上へも、おおいかぶさって来るのであった。
「ど、どこぞ、火の手は」
宗盛以下、総立ちとなって、眼は、あちこちの高所を見まわした。
せるばかり煙は来るが、ここの陣屋からは、その方角の視野はきかない。行盛、資盛など、思い思いに、上へ向かって駆け去り、またある者は、道もない所を、よじ登っている。
人いちばい、 えてはいるし、大鎧の身あがきもはなはだまずい内大臣おおい殿との (宗盛) まで、武者三、四人に押されながら、がけ の肌に取っついていた。
そして、せっかく、思う所の高い大岩の辺まで、よじ着きかけたと思うと、急にズズズ ── と下へすべった。だが、あやうく、その大きな体が、悲鳴とまでならずに止まりかけると、
「た、たわけものかな。うろたえるな」
と、さお になって、しり 押しの武者をしかりつけた内大臣おおい殿との の顔が、なあんとも、下から仰ぐと、おかしかった。── 下で見ていたのは、桜間ノ介だったのだ。
「やあ、笑止。なんと御覧ごろう じたかよ、内大臣の殿」
と、彼は、そこで哄笑こうしょう しながら、
「── まだ、判官ほうがん の姿は、眼にもなされまいが、その辺にお立ちあって、よくお腹をすえて御覧ごろう じあれ。── いや、もう物申すもおろかしい。さらばでおざる。桜間さくらますけ 能遠よしとお は、ふたたび、お目にかかることはありますまい。これにて、おいとま申し上げる。わはははは」
言い捨てると、彼の影は、はい迷う煙とともに、どこへともなく走り去った。
宗盛の耳へまで、彼の高笑いが、聞こえていたかどうか。
声はとどいても、意にとめる余裕はおそらくなかったろう。やっとのことで、彼は、大息つきながら高地の一端に身を立たせている。しかし、茫然ぼうぜん と、南の方へおもて を向けたままだった。その影は、朝の陽に、よろい金具や太刀の光を、チカチカとにじ 立たせてい、黒煙りの宇宙にあざ らかな総帥そうすい としての立派さを截金きりがね阿修羅像あしゅらぞう のごとく描き出してはいたが、果てもない自己喪失を、いつまでも守りつづけていた。
そこから望まれた炎の舌は、二箇所や三箇所のものではない。
古高松の町屋から、牟礼むれ の辺りの、部落の屋根、味方の小屋やさく 、およそ人里らしい所といえば、真っ赤なものの狂いが見えぬ所はない。── 当時、古高松の里は、町屋だけでも千五百ほどな戸数はあったという。その聚落じゅらく のあなたこなた、どこがどこともいえないほど、地殻ちかく いちめん、ぶつぶつと火を噴いている曠野こうや に見えた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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