あらゆる事態は、そしてその急変貌
も、もし、いつものような春の晨あした
の寝心地である朝ならば、夢見る間もない、ほんの一瞬いっとき
の推移でしかなかったのである。 「すわ、まことの敵は、べつな方に」 と、立ち騒いだのも、今となって、なんと遅いことだったろうか。 みるまに、屋島全体の影は、墨のような早い気流の中にぼやけている。 黒煙りはいちめんだった。もうもうとして、どこのものやら定かでない。 しかし、その火元が屋島の西南から南側にわたっていることは確かだ。 それも、渦に渦を重ねて、もくもくと噴き上げてくる。おりからの風に、その幾すじもも煙の柱は、空の途中で折り曲げられる。そして噴騰ふんとう
の頭を圧おさ えられた煙の傘は大きく横にはい拡がって、屋島の上へも、おおいかぶさって来るのであった。 「ど、どこぞ、火の手は」 宗盛以下、総立ちとなって、眼は、あちこちの高所を見まわした。 咽む
せるばかり煙は来るが、ここの陣屋からは、その方角の視野はきかない。行盛、資盛など、思い思いに、上へ向かって駆け去り、またある者は、道もない所を、よじ登っている。 人いちばい、肥こ
えてはいるし、大鎧の身あがきもはなはだまずい内大臣おおい
の殿との (宗盛)
まで、武者三、四人に押されながら、崖がけ
の肌に取っついていた。 そして、せっかく、思う所の高い大岩の辺まで、よじ着きかけたと思うと、急にズズズ ── と下へすべった。だが、あやうく、その大きな体が、悲鳴とまでならずに止まりかけると、 「た、たわけものかな。うろたえるな」 と、真ま
っ蒼さお になって、尻しり
押しの武者をしかりつけた内大臣おおい
の殿との の顔が、なあんとも、下から仰ぐと、おかしかった。──
下で見ていたのは、桜間ノ介だったのだ。 「やあ、笑止。なんと御覧ごろう
じたかよ、内大臣の殿」 と、彼は、そこで哄笑こうしょう
しながら、 「── まだ、判官ほうがん
の姿は、眼にもなされまいが、その辺にお立ちあって、よくお腹をすえて御覧ごろう
じあれ。── いや、もう物申すもおろかしい。さらばでおざる。桜間さくらま
ノ介すけ 能遠よしとお
は、ふたたび、お目にかかることはありますまい。これにて、おいとま申し上げる。わはははは」 言い捨てると、彼の影は、はい迷う煙とともに、どこへともなく走り去った。 宗盛の耳へまで、彼の高笑いが、聞こえていたかどうか。 声はとどいても、意にとめる余裕はおそらくなかったろう。やっとのことで、彼は、大息つきながら高地の一端に身を立たせている。しかし、茫然ぼうぜん
と、南の方へ面おもて を向けたままだった。その影は、朝の陽に、よろい金具や太刀の光を、チカチカと虹にじ
立たせてい、黒煙りの宇宙に鮮あざ
らかな総帥そうすい としての立派さを截金きりがね
の阿修羅像あしゅらぞう のごとく描き出してはいたが、果てもない自己喪失を、いつまでも守りつづけていた。 そこから望まれた炎の舌は、二箇所や三箇所のものではない。 古高松の町屋から、牟礼むれ
の辺りの、部落の屋根、味方の小屋や柵さく
、およそ人里らしい所といえば、真っ赤なものの狂いが見えぬ所はない。── 当時、古高松の里は、町屋だけでも千五百ほどな戸数はあったという。その聚落じゅらく
のあなたこなた、どこがどこともいえないほど、地殻ちかく
いちめん、ぶつぶつと火を噴いている曠野こうや
に見えた。 |