〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/27 (木) きょ そう じつ そう (二)

なお、しきりに、遠くを眺めやりながら、
「さても残念。たとえ、いかなる大軍なりと、これが、播磨灘はりまなだ を兵船で押して来るのなら、ござんなれ、教経が思うつぼ、われらの水軍で思うままに迎え撃って、九郎判官以下を、魚腹に葬り去ってくれんものを」
と、ひとりつぶやいていた。
宗盛は、また聞きとがめて、
「はて、能登どのは、どうかしたな。東国武者は、陸戦の達者ぞろい、そう考えて、怖気おじけ づいたか」
と、言った。しかるような語気でもあった。
すると教経は、心外そうに。
「鵯越えにて、兄の通盛みちもり を討った判官義経こそは、この教経にとっては忘れ難い宿敵。なんでそのあだおび えましょうや。けれど、それがし残念なりと申す訳は、別な意味です。いかんせん、屋島の陣には、馬がない。兵はあれど、馬が少ない」
「・・・・・・・」
「さきに、お味方の軍勢が、伊予攻めに向かうさい、あらましの馬匹は、三千の兵とともに去った。残る馬匹は、総門のおうまや や、王墓おうぼ の牧に、多少、飼いつないであったものの、ここ数日の暴風あれ に、干潟ひがた は高潮を巻き揚げ、馬どののおぼれ死にも少なくないと聞いておる」
「そ、そんなことはあるまい。・・・・馬が足りぬなどとという心配は。・・・・のう、どうだな?」
宗盛の容子には、あきらかに、不安が見えた。正直な人なのだ。自信のないことは、顔に包んでいられない。
たれにも、変事はなかった。教経にいわれて見ると、たれもが、教経と同じ憂いを持ったらしい。
「ここに、三千余騎はあると、御安心のていですが、馬が少なくては、せっかくの軍勢も、無力にひとしい。坂東武者の鉄騎の前には、駆け散らされるのみでしょう。・・・・かつはまた、お味方の陣には、主上、女院、そのほか女子どもも多数あまた 抱えておりますゆえ」
「待て待て、能登どの、それらの御方や女房たちは、この山上にあれば、心配はない。いかに源氏のやから とて、馬でここの山路を駆け登れぬ」
「おろかな気休めを・・・・」
と、教経は、青白い微笑を、口の辺りにちらと見せて、あわれむようにいい返した。
「事、こうなっては、屋島はかえって、そのけわ しさが、お味方のさまた げ、もし、ここに楯籠たてこも るなどの策を思えば、みずから孤立の運命を選ぶものとなりましょうず。── なんとなれば、敵が、裏の陸路へ来るなどとは、思いもせず、ただ海上の一方のみを、ここの守りと固め、ひたすら、源氏と会う日は、船戦ふないくさ ぞと、それの要害のみを一途いちず に励んでおりました。そのため、馬の数などは、われらもおのおのにも、念頭にもなかったのではないか。・・・・不覚でした、残念です。ただ今、教経がおさげす みをうけた悔いも、そこを申した次第。・・・・いや、もう言いません。はははは、ぜひないことだ」
彼の皮肉な一笑が、辺りを白けさせた時だった。
総門の方からここへ五、六騎急いで来るらしい駒音がする。
「さては、味方の上総五郎兵衛かずさのごろうびょうえから何事かを らせて しぞ」 と、諸将は言い合わせたように床几を立ち、近づく騎影を、それぞれな に待った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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