〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/24 (月) ぐん ちょう お の の く (一)

恐怖にそよ がれた女房たちは、廊の外や妻戸の辺を、ただうろうろするだけだった。あの女人特有な声の音や口走りは、何の役にも立たないのみか、恐ろしい予感を一そう不気味な幻覚にし合って、その悲涙と、狂おうしいうろたえの影を、花屑はなくず旋風つむじ みたいにぐるぐる描いて見せるにすぎなかった。
「ああどうしようぞ、ここも源氏の攻めるところとなったら」
彼女たちは、死の匂いを持った暗い風の中で、こう、黒髪と黒髪のみだれを抱き合うほか、身の置き場も知らなかった。
およそ、平家の女性とは、こういう哀れな弱々しい蝶々の群れであったといえよう。
── こらが、かつての都の中でも見られた、あの木曾の女将軍や女兵士たちならば、この に、泣きなどもしまいし、うろたえもしていまい。
けれど、平家の蝶々たちは、建礼門院をはじめ、以下の武将の妻や小女房にいたるまで、すべての者が宮苑きゅうえん と深窓のほかには世の風も知らずはぐく まれて来た者ばかりといってよい。── 身に物具もののぐよろ う慣いはなかったし、手に薙刀なぎなた を持つすべも知らなかった。
しかし、 の内の建礼門院とそつつぼね とは、事態を聞くと、さすがすぐわが身のことは、さて いていた。いや、自身はなかったといってよい。あるのは、主上のおん身のことだけだった。それだけで、自身を恐怖するゆとりもなかった。── と、そのうちに、
「やあ、あわて騒ぐことはない。泣き狂うなどみぐる しいとは思わぬか。まだ、事も定かにわからぬものを」
近づいて来た大鎧おおよろい の人影がある。平大納言時忠にちがいなかった。讃岐中将時実、侍従少将有盛なども、つづいて見えた。
「おしずまりなさい」
と、侍従の有盛は、あたりの や黒髪の群れを、たしなめながら、
「あのかん だかいおん泣き声は、主上ではありませぬか。大理どの、主上もあのようにお泣きになっておられまする」
「ご無理はない」
と、時忠もそこの妻戸の口へ来て ──
「余りに、まわりの女房たちが、身もたましいも消して恐れさわ ぐゆえ、主上もびっくりなされたのであろう。そんなことで、万一の供奉ぐぶ もできようか。御守護には、時忠もおる。武者ばらも大勢いる。女性にょしょう たちは、じたばたせずに、落ち着いて、女院のお指図を待ったがよい。何がやって来ても、身勝手にお側を離れ、散り散りになってはならぬ」
と、彼もまた、弱い群を、ねんごろに、こうさと しながら、そして御寝ぎょし のうちへ、入って行った。
見ると、女院と帥ノ局は、もう、みかどにおはかま をはかせ、御衣ぎょい も厚く着重ねて、いつでもこの場を立てるように、御支度をすませていた。
「おう、時忠どのか」
みかどの側から、帥ノ局の声だった。
彼女と、時忠とは、たれも知る仲であるが、玉座の前では、夫婦にして夫婦ではない。
「時忠にござりまする。・・・・時刻も時刻、みかどには、さだめし、きも をお消しなされたことでありましょう」
「いえのう。・・・・みかどのお狂い泣きは、そのためのみではありませぬ。夜半よわ を過ぎたころから、にわかなお熱気ねつけ なのです」
小さい燈火ともしび の明滅の中で、女院のお顔だけが、ほかの何物よりも白かった。やっと、すこしかん をしずめられた幼帝の、まだ泣きじゃくるお背中を深く抱え寄せながら ──
「して、志度しど の方からここへ敵が近づいて来るとは、まさしゅう、まちがいのないことなのですか」
と、きっとして、たずねた。
「まだ、しかとは分かりません。・・・・が、たった今、阿波国の、桜間さくらますけ 能遠よしとう と申す者が、奥阿波から木田郡の山から山を、よろばい越え来て、急を、ふもと の総門へ告げて参りました由」
「その者は、何の為に、阿波から逃げて来たのですか」
「昨、十九日の早暁、阿波の勝浦かつうらいそ へ着いたる源氏に不意を かれて、桜間ノ介のたち は焼かれ、坂西ばんざい の近藤六は敵にくだ り、判官ほうがん 義経の手勢およそ百七、八十騎が、ましぐらに大坂越えを経、この屋島の背後うしろ へいそいだとの注進なのでございまする」
判官ほうがん とは? ・・・・オオ、あの、鵯越の御陣のおりも、お味方のうしろをおそ って来た恐ろしい源氏方の大将か」
「そうです。その義経とせば、ここ幾日かの風浪など物ともせず、ふたたび、思いもうけぬ奇襲をここへ試みて参ったかも知れません」
「では、はや、志度しど から牟礼むれ のあたりへまで、その義経が」
「桜間ノ介の らせを受けると間もなく、その方角に、おびただしき松明たいまつ が見ゆると、あちこちで騒ぎ出したものでした。── が、たとえ、判官ほうがん であろうとも、二百にも足らぬ小勢、どれほどなことがありましょう。まず、お身支度はなされておくも、じっと、これに御座ござ あらせられ、やがて、もすこしくわ しゅういくさ のもようも知れて参りましょうほどに」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next