恐怖に戦
がれた女房たちは、廊の外や妻戸の辺を、ただうろうろするだけだった。あの女人特有な声の音や口走りは、何の役にも立たないのみか、恐ろしい予感を一そう不気味な幻覚にし合って、その悲涙と、狂おうしいうろたえの影を、花屑はなくず
の旋風つむじ みたいにぐるぐる描いて見せるにすぎなかった。 「ああどうしようぞ、ここも源氏の攻めるところとなったら」 彼女たちは、死の匂いを持った暗い風の中で、こう、黒髪と黒髪のみだれを抱き合うほか、身の置き場も知らなかった。 およそ、平家の女性とは、こういう哀れな弱々しい蝶々の群れであったといえよう。 ──
こらが、かつての都の中でも見られた、あの木曾の女将軍や女兵士たちならば、この期ご
に、泣きなどもしまいし、うろたえもしていまい。 けれど、平家の蝶々たちは、建礼門院をはじめ、以下の武将の妻や小女房にいたるまで、すべての者が宮苑きゅうえん
と深窓のほかには世の風も知らず育はぐく
まれて来た者ばかりといってよい。── 身に物具もののぐ
を鎧よろ う慣いはなかったし、手に薙刀なぎなた
を持つすべも知らなかった。 しかし、簾す
の内の建礼門院と帥そつ ノ局つぼね
とは、事態を聞くと、さすがすぐわが身のことは、さて措お
いていた。いや、自身はなかったといってよい。あるのは、主上のおん身のことだけだった。それだけで、自身を恐怖するゆとりもなかった。── と、そのうちに、 「やあ、あわて騒ぐことはない。泣き狂うなど醜みぐる
しいとは思わぬか。まだ、事も定かにわからぬものを」 近づいて来た大鎧おおよろい
の人影がある。平大納言時忠にちがいなかった。讃岐中将時実、侍従少将有盛なども、つづいて見えた。 「おしずまりなさい」 と、侍従の有盛は、あたりの裳も
や黒髪の群れを、たしなめながら、 「あの甲かん
だかいおん泣き声は、主上ではありませぬか。大理どの、主上もあのようにお泣きになっておられまする」 「ご無理はない」 と、時忠もそこの妻戸の口へ来て
── 「余りに、まわりの女房たちが、身もたましいも消して恐れ噪さわ
ぐゆえ、主上もびっくりなされたのであろう。そんなことで、万一の供奉ぐぶ
もできようか。御守護には、時忠もおる。武者ばらも大勢いる。女性にょしょう
たちは、じたばたせずに、落ち着いて、女院のお指図を待ったがよい。何がやって来ても、身勝手にお側を離れ、散り散りになってはならぬ」 と、彼もまた、弱い群を、ねんごろに、こう諭さと
しながら、そして御寝ぎょし ノ間ま
のうちへ、入って行った。 見ると、女院と帥ノ局は、もう、みかどにお袴はかま
をはかせ、御衣ぎょい も厚く着重ねて、いつでもこの場を立てるように、御支度をすませていた。 「おう、時忠どのか」 みかどの側から、帥ノ局の声だった。 彼女と、時忠とは、たれも知る仲であるが、玉座の前では、夫婦にして夫婦ではない。 「時忠にござりまする。・・・・時刻も時刻、みかどには、さだめし、胆きも
をお消しなされたことでありましょう」 「いえのう。・・・・みかどのお狂い泣きは、そのためのみではありませぬ。夜半よわ
を過ぎたころから、にわかなお熱気ねつけ
なのです」 小さい燈火ともしび
の明滅の中で、女院のお顔だけが、ほかの何物よりも白かった。やっと、すこし癇かん
をしずめられた幼帝の、まだ泣きじゃくるお背中を深く抱え寄せながら ── 「して、志度しど
の方からここへ敵が近づいて来るとは、まさしゅう、まちがいのないことなのですか」 と、きっとして、たずねた。 「まだ、しかとは分かりません。・・・・が、たった今、阿波国の、桜間さくらま
ノ介すけ 能遠よしとう
と申す者が、奥阿波から木田郡の山から山を、よろばい越え来て、急を、麓ふもと
の総門へ告げて参りました由」 「その者は、何の為に、阿波から逃げて来たのですか」 「昨、十九日の早暁、阿波の勝浦かつうら
の磯いそ へ着いたる源氏に不意を衝つ
かれて、桜間ノ介の舘たち は焼かれ、坂西ばんざい
の近藤六は敵に降くだ り、判官ほうがん
義経の手勢およそ百七、八十騎が、ましぐらに大坂越えを経、この屋島の背後うしろ
へいそいだとの注進なのでございまする」 「判官ほうがん
とは? ・・・・オオ、あの、鵯越の御陣のおりも、お味方のうしろを襲おそ
って来た恐ろしい源氏方の大将か」 「そうです。その義経とせば、ここ幾日かの風浪など物ともせず、ふたたび、思いもうけぬ奇襲をここへ試みて参ったかも知れません」 「では、はや、志度しど
から牟礼むれ のあたりへまで、その義経が」 「桜間ノ介の報し
らせを受けると間もなく、その方角に、おびただしき松明たいまつ
が見ゆると、あちこちで騒ぎ出したものでした。── が、たとえ、判官ほうがん
であろうとも、二百にも足らぬ小勢、どれほどなことがありましょう。まず、お身支度はなされておくも、じっと、これに御座ござ
あらせられ、やがて、もすこし詳くわ
しゅう軍いくさ のもようも知れて参りましょうほどに」
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